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いじめ、なぜ許せない?【ぷろおごvoicy文字起こしvol.73】


この記事はプロ奢ラレヤーのVoicy『いじめ問題、とかについて』(2021年7月18日公開)を元に作成したものです。
この放送回は愛こそすべて。すべてはうまくいく。熊さんの提供でお送りします。



はい、どうも。
この配信は過去累計3000人以上にメシを奢られてきた浮浪者が発見した人間あるあるを独り言のようにただ垂れ流すだけのラジオです。
物好きな人だけ聞いていってくれればと思います。


今日は「いじめ問題、とかについて」ってタイトルを付けたんですが、特にそれに限定して話すわけではなくて、最近浮浪者が思うことをちょろっと話そうかなと思います。


少し前の話になりますが、東京オリンピック関連の偉い人にいじめをしていた過去があって、かなり昔にメディアの取材で語っていたそうです。そして、いよいよオリンピックに注目が集まってきたという時に当時の記事が掘り起こされ、大バッシングを受けて辞任した。

こんなことがありましたね。

「あんないじめをしてるようなやつがオリンピックの偉い役職に就くなんて…!」
解任の署名が集まったり、世界でも反応があったり、世間を大きく騒がせていたようですね。

僕はあんまり詳しく見てないので、騒ぎだけを「へ〜」と外部から眺めていたんですが、その辺についてちょっと思うことを話していこうかなと思います。

呪われた人々

何と言えばいいのか、人生というのは個人的な経験だらけだと思うんですよね。

個人的な経験の連続でしかないわけですけど、その個人的な経験に、自分の頭というか、考えとか動きとかが強く縛り付けられてる人たちが一定数いるわけですよね。

僕はこれを「呪われている」って言ってるんですけど、呪われた人たちは、自分が採用している判断基準とは全く別の個人的な経験、ある種のトラウマみたいなものによって、一つの現象がすごく大きく見えたりして、反発心を抱いたりとかそういう振る舞いをしがちなんですね。

自分ではどうにもならない力が働いて、動かされてしまう。



関わり方にも色々あると思いますけど、人がいじめ問題に接するのは、幼少期とか子供時代、遅くても十代後半ですよね。

こうした人格形成過程で発生した出来事は人格形成に影響を与えるため、自分の経験に強く残り、呪いになりやすいのかなと僕は思っています。

いじめの呪いを持つ人々は自分にとって関係のない、芸能人なんかのいじめ問題に発狂したり、許せない!って激怒したり、いじめた人が破滅するまで攻撃したり、そういうムーブをしてしまうことがあると思うんです。


これはいじめ問題を解決するのに効果的ではないと思うんですよね。
だって、目前のいじめた人が破滅してもいじめが起こる構造はなくならないし、構造がある限りは今後も起こりうることじゃないですか。

それに、間接的に「いじめをした人」を攻撃することで、自分がいじめの呪いから解放されるかというと、そうはならないですよね。つまり、社会的ないじめ問題を解決するのにも、個人的なトラウマを癒そうとするのにも、どちらにとっても効果的ではないと思うんです。


人間あるある  no.73

他人をいじめから救いたいマン
自分が救われたい

いじめが起こる社会的構造が変わらないうちは、社会的ないじめ問題は解決しないですよ。じゃぁ、どうやって個人的ないじめ問題を解決するかって、やっぱり納得するしかないんですよね。

呪いから解放されるには

納得することで何かを終わらせることができると思うんですよ。過ぎ去ったことって終わったことじゃないですか。終わっているはずのことなのに終わってないということは、どこか納得できない部分があるからだと思っていて、終わらないと次に行けないんですね。

終わっていないからこそ自分の過去が想起されて、他人の経験に自分を重ねて終わらせようとすることもあるじゃないですか。しかし、他人の問題が解決されても自分の経験も同じように昇華されるとは限らないんですよ。


起こったことはなかったことにはならないので、それを終わらせられない内はいつまでも抱え続けるわけです。リソースを食われ続けるんですよね。それは他人にはどうしようもなくて、自分自身納得しないとおさまらない部分があると思うんです。

「いじめられてました、悲しかったです。」
それで納得できたらそれでいいと思うんですよ。

「許せない…許せない!」とか言って自分の目に入っている部分だけをどうにかこうにか倒していったって、なくならないんですよね。


とはいえ、納得できなかったら納得できなかったで仕方ないとも思うんです。ただそんなときには、他人の話に自分を投影してふわっと蒸発させてしまうようなエネルギーの使い方をするよりも、今できることを厳密に捉えて、リアルスティックにひとつひとつやっていくことが、納得につながっていくだろうし、自分のためになるんじゃないかなと思いますね。

他人の人生の、全く自分に関係ないところにエネルギーを割き、いじめた人を討伐する瞬間的な気持ち良さはあっても、何も残らないんですよ。むしろ底無し沼に嵌るようなもので、どんどん深みにはまっていく、抜け出せなくなっていくわけです。

問題を抱えている自覚がある人ほどそうした沼に入ってエネルギーを霧散している場合ではなく、自分の問題をやっつけるためにエネルギーを使った方が良いだろうなと思います。

それが人によっては復讐したいという願望からくるものだったとしても、結果的に残るものがあった方がいいし、新たに得たものがいづれか問題解決のために役立ったりしますからね。


あきらめと納得

「あきらめ戦略」って本を出してますけど、この本も何かをあきらめることで本当にあきらめたくないもののためにエネルギーやリソースを集約させよう、と。

『あきらめ戦略』祥伝社


そういうことなんですよね。

結局は何をあきらめるかっていうのが全てだし、諦めてきたものの数がその人の力になってたりする訳ですからね。


は何たら障害とかって、おそらく診断名がつくんだろうけど、まあしょうがないな。と思ってる部分もあるし、納得せざるを得ないからね。

納得してやってますが、納得したからこそ得られたものはたくさんあるわけです。


過去は変わらないし構造も中々変わらないので、自分ができる範囲でやれることをやっていくしかないかなと思います。

いじめについてというか構造的な問題に対するタッチの話になりましたね。

というわけで今日はこれでおしまい。

バイバイ


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