街の中での書店の役割。購買と投票の同一性
私が書店を始めて2年半になる。
神奈川県大和市に「冒険研究所書店」をオープンさせたのが、2021年5月のことだ。
「冒険家がなぜ書店を?」
とは、この2年半で何度聞かれたか分からない。ので、だったらその回答をまとめておこう、と思って書いたのが「書店と冒険」というZINEである。
全くの書店未経験から、さまざまな要因の糸が絡み合ったその結束点で「書店」というものが私の中に立ち上がってきた。
その思索の経緯を書いている。
2年半もやっていると、いろいろなことがあった。
その中でも、書店をやっていて良かった、そうか、これが書店の役割なのだと改めて思った印象的な出来事がある。
ある平日の午後。近所の中学生が店に入ってくるなり、一直線にある本を手に取り、レジに持ってきた。
それはフランスの哲学者ロジェ・カイヨワが書いた「蛸」という本。
中学生がなぜこれを!?と思い、尋ねてみると「授業で蛸のことを勉強したら、生態がすごい面白くて興味出て、前にここでこの本を見かけたんですがお金がなくて(税込3300円)諦めたんですが、お小遣い溜まったので今日来たんです!」と言う。
もう、こちらとしたら嬉しくて嬉しくて。「読んだら感想教えてね!」というと、彼は「はい!」と、ニコニコして本を抱えて帰っていった。
きっとその本は、彼の本棚に長く居続けることだろう。もう自分の物だ、好きに読んで欲しいと思って背中を見送った。
よく、図書館があれば本屋はいらない、本を読むなら図書館で十分だという意見を聞く。
私は図書館も書店も共に必要だと思う。
それぞれに、役割が異なると思う。
中学生の彼は「蛸」を読みたいのであれば、図書館に行けば読めたはずだ。でも、彼はきっと「買いたかった」のだと思う。
図書館では、その本を「所有」できない。中学生の彼は、図書館で借りて読むのではなくて、自分の本として買いたかったはず。
買う、所有する、というのは特別な体験だ。ページを折って読もうが、赤線を引こうが、お風呂で読もうが、自由だ。その本は、自分の書棚に居座って、何かの折に急に読み返すかもしれない。
私も中高生くらいの時を思い返してみれば、本やCDなどを買った思い出が残っている。内容も忘れてしまったけど、買った記憶だけ残っているようなものもある。
私たちの脳は、ただの知識のストレージ機能として存在しているわけではないはずだ。脳は手足や肌の感覚、嗅覚などの五感と繋がり、全てを動員して「体験」している。それが身体性というものだ。
その体験が、世界を広げていく。
中学生にとって、3300円の本を買うというのは、一大決心だったかもしれない。ドキドキしながら、自分が欲しいと思った本を買い、それを抱えて家に帰り、そしてもうこれは自分の物なのだ!という喜びの体験をできる場が、街には必要だと思う。
ネット通販は便利だ。否定はしないし、私も利用することはある。
でも、機能性や効率化だけを考えて、街から商店が消えて、配送トラックだけが走り回る街に文化が生まれるだろうか。
便利なのは、今この瞬間を生きている私たちには便利で良いかもしれない。が、この瞬間の利便性を言い訳にして、みんなで通販だけを利用していけば、自ずと街からは商店が消えて、配送トラックだけが走り回る街になる。
消費行動は、投票行動のようなものだ。どこから、誰から、何を買う、というのは、あなたがそれを支持して投票しているということに等しい。
膨大な消費活動の中で、今日の私の買い物なんて社会の大きな流れにとっては大した影響はないのだから、便利な方が良いよね。というのは、私の一票なんて行使してもしなくても、今回の衆議院選挙の中では大した影響はないのだから、別に投票に行かなくても同じだよね、というのと何ら変わらない気がする。
資本主義と民主主義は、双子として同じ素地から生まれたシステムだ。
今日の一人ひとりの行動が未来を作る。私は、自分で街の中で商売をするようになって、改めて自分の購買行動が街に対する投票行動と同一なのだということを、実感している。
「書店と冒険」にはそんなことも書いた。それを私は「機能と祈り」という言葉から考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?