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イヌイットの伝承と、叡智の消え去り方

以前、カナダからグリーンランドまで一人で歩いた時、ゴールのグリーンランド最北の集落シオラパルクに定住する大島育雄さんから、一つの伝承を教えてもらった。

グリーンランド最北の村シオラパルクから、海岸線を伝ってさらに北上した場所には、かつて小さな集落が存在した。

その集落の海岸線には、婆さんが海を見つめたまま固まってしまったと伝えられる「石」があるという。

その伝説とはこうだ。

昔々、その村に身寄りのないひとりの婆さんが住んでいた。かねてから自分の息子が欲しいと願っていたその婆さんは、ある日、親を失った一頭のホッキョクグマの子供を自分の養子にしたという。

ホッキョクグマの息子は大きく成長し、婆さんのためにアザラシを獲ってきたり、本当の母子のように日々を重ねていた。

婆さんは、息子のクマの体には炭を塗り、近隣の村人たちには「炭を塗った黒いクマは私の息子だから、見かけても間違って殺さないでくれ」と言っていた。村人たちもそれを理解し、クマの息子を大事にした。

しかしある日、クマの息子はいつもは行かない、南の集落の方まで獲物を探して遠出してしまったという。

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事情を知らない南の村人たちは、見つけた息子のクマを誤って殺してしまった。

一方、いつまでたっても帰ってこない息子を案じた婆さんは、寒風の吹く中アザラシの毛皮を被って、毎日海岸線を見つめながら「息子よ帰ってこい」と言い続けているうちに、やがて石になってしまったという。

集落はいつの日か住む人もいなくなり、廃村となった。その石は実際にいまでも集落跡の海岸線に立っており、その場所を通るシオラパルクのエスキモーたちは、「婆さんの石」の前を通るたびに口元にアザラシの脂を塗ってやり、息子を案じて待ち続ける婆さんの飢えを癒してやるのだという。

しかし、現在ではシオラパルクの猟師たちもこの辺りまで狩りに来ることはめったにない。

それは、デンマーク政府やグリーンランド政府による狩猟の規制強化や、狩猟申請のシステムとエスキモー猟師たちの狩猟行動の間に乖離があるため、あまりの狩猟効率の悪さに遠出をしなくなっているのだ。例えば、ホッキョクグマを獲るにも、一頭獲ったら書類を提出して申請して、許可をもらって次が獲れる、という具合だ。もし遠出をしたら、2〜3頭獲らなければペイできないのだが、いちいち一頭獲る毎に村に戻らなければならないという。

さらに、かつて世界中で話題になった、カナダのセントローレンス湾でのタテゴトアザラシの真っ白な子供を現地猟師が木の棒で撲殺して獲るということへの批判も影響を及ぼした。動物愛護家として有名なフランスの某女優が大々的な「アザラシ保護キャンペーン」を行ったことにより、アザラシ皮の価格が暴落し、それ以来アザラシ猟も生活の糧とはならなくなった。

こうして遠出をしなくなるとどうなるかといえば、はるか昔から長い年月にわたって受け継がれてきたルートの知恵や、狩猟の技法、婆さんの石の伝説のような各地に散らばる口伝がやがて消えて無くなっていくということを意味する。

私も北極の地を長年にわたり、彼らの狩猟エリアを歩いてきた。その地域での狩猟の知恵というのは、一朝一夕に築き上げられるものではない。

村からはるか100km以上離れた場所まで、GPSやコンパスといった近代的なナビゲーションの道具を使わずに、ピンポイントで猟場へ向かっていくというのは数多くの経験の蓄積による結果だ。

そんなものは、技術の進歩でいくらでもできるじゃないか、彼らもGPSを使えばいいじゃないか、という意見があるとすれば、それは私は間違っていると思う。確かに最近のイヌイットは近代機器も多く使う。しかし、技術とは、人類ができなかったことをできるようにするために、背中を押すもの、補完するためのものだと思う。GPSやコンパスがなくてもできていたことを、それがなくてはできなくなるようにする技術というのは、技術の本質の精神に逆行している気がする。技術があるから使えばいい、は確かに間違っていないが、その発想で物事を切りまくっていけば「自動車があるから歩く必要はない」「ネットがあるから人と会う必要はない」と同等の思考に陥ってしまう。身体性の欠如した人間の営みは、確実に大切なものを置き忘れる。それは忍びない。

時に技術は人間を退化もさせてしまう。

あらゆるものごとは、やがて消えていくのは世の常としても、今まさに目の前で消えていこうとする「風前の灯火」をそのままサッサと吹き消してしまうのは、どうにも居心地が悪い。

例えば、イヌイットの有名なモニュメントとして「イヌクシュク」というものがある。

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このような、石を人の形に積み上げたものだ。これは、イヌイットにとってはルートの目印として使っていたものだった。人型に積み上げたイヌクシュクの股の間から先を覗くと、遠くに次のイヌクシュクが発見できるようになっており、それを繋ぐことで目標物の乏しい土地を旅していく、そんな使い方をしていた。

いまの時代、そんな使い方をしている人はいない。ナビゲーションは近代的な手法に大体が置き換わっている。ただ、イヌイットは今の時代にあっても事あるごとに、特に目的もなく写真のように石を積む。そこにあるのは実用主義的な合理思考ではない。一人のイヌイットにつながる膨大な過去の蓄積と目の前にある自然が、彼をもって石を積み上げさせるだけのように感じる。石がある、一人のイヌイットがそこにいる、だから積む、それだけな気がする。

それが、民族の魂のようなものではないか。

古い知恵は新しい知恵に必ずヒントを与え、置き換わっていってもその魂や根本の本質みたいなものは受け継がれていくはず。

エスキモーイヌイットの文化は、いままさに風前の灯火である。叡智が消え去ってしまうその前に、私も少しでもこの地域に関わって吸収できるものは学んでいきたいと思う。

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