内面への旅
弓術を学んだドイツ人
オイゲン・ヘリゲル著「日本の弓術」が面白い。
100年ほど前、日本の大学に教師として赴任したドイツ人哲学者が、本格的に弓術を学びやがて免許皆伝を得る体験記。
最近、冒険探検を考える上での「覇権主義に根差す西洋的探検のコンテクスト」から、東洋的日本的な動機付けの本質を知りたいと思っている。
そんな中で出会った本であるが、私が興味を覚えた一節を紹介する。
「弓術は、弓と矢をもって外的に何事かを行おうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味を持っている。それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。目的に至る道であって、目的そのものではない。この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば、神秘的合一、神性との一致、仏陀の発現である。」
そしてもう一つ。
「弓を射ることは弓と矢をもって射ないことになり、射ないことは弓も矢もなしに射ることになる。日本人にとってはこの逆説的な方式は、ほとんど説明を必要としないほど正しく事の真相を言い中てる。反対にこれがわれわれ外国人を途方に暮れさせることは確かである。」
ドイツ人哲学者が、弓術を学ぶ中でこの境地に至ったのは驚愕に値する事だ。完全に禅や老荘思想。般若心経の「色即是空空即是色」である。
中動態の世界
オイゲン・ヘリゲルの書物からは、西洋の「拡大」「征服」「同化」という、自らのベクトルがひたすら外に外にと向かう論理ではなく、能動態でも受動態でもない、中動態的なベクトルを私は感じる。
能動態とは、自らの内部から発したベクトルが自らの外側に向かう動作。受動態とは、自らの外側から向かってきたベクトルが自らの内側に向かう動作。中動態とは、自らの内部から発したベクトルが、自らの内側に向かう動作だと言う。英語は完全なる受動態と能動態の対立言語だ。しかし、古代ギリシャ語には受動態が存在せず、能動態と対立していたのは中動態だったという。「中動態の世界」の言葉を借りれば、中動態では「動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」という。
「私は食べる」と言ったとき、私が食べているが「私」は「食べる」ではない。「私」と「食べる」は分断している。「私は愛している」と言うとき「愛している」という動詞に対する「私」という主語は、極めて「愛している」という動詞に接近している。動詞に対して主語がその座となるような過程にある。という理解でいいのだろうか。私も考えながら書いている。
日本人の冒険感にも、中動態的なベクトルがある気がしている。
「私は冒険する」と言うとき「冒険する」という動詞に対して「私」はその座になろうと接近を試みている。ここに、何となく日本と欧米の意識の差を感じるのだが、気のせいだろうか。西洋的探検のコンテクストにおいては、冒険探検とは「外部」に対しての働きかけだ。英語に象徴される能動態の世界であるイギリス中心に発展した探検とは、己から外部への働きかけでしかないのではないか?うーん、まだハッキリと書けないが、そういうことだ。
内面への旅
オイゲン・ヘリゲルが言う「弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない」とは素晴らしい表現だ。
「ある事」とは、内面へと向かうひとり旅。その仮託として弓と矢があり、そのひとり旅とはある種の神話の追求なのではないか。ジョゼフ・キャンベルは「神話の力」の中で”内面への旅”について語っている。神話とは、内面へと一人で旅立つ非言語的な経験の果てに広がる次元だ。ヘリゲルの言う「神秘的合一、神性との一致、仏陀の発現」とは神話との出会いなのではないか。
冒険行為に対して、何らかの効用を期待して動き出した途端に、目的には遠く及ばない。答えは内面にある。冒険における危険や困難を、外的要因として能動態の顕現要素としか見なさないうちは、永遠に内面の旅に出ることはできない。
まとまらないが、備忘録的に書き留めておく。
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