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日本社会の許容力。やりたいことをやる、とは

何年か前、友人の大学教員に依頼されてある大学の授業で学生さん達に北極の話をした。授業が終わり、学生は授業の感想をレポートにまとめ、後日私の手元にも感想を送ってもらった。

話しながら「伝わってるかな?」と私も心配になるので、頂いた感想を読んで反応を確認していると、一人の女の子からの感想の一文に目が止まった。

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「周りの大人は、世の中は厳しいものだと私たちに言って来ますが」という一文。果たして彼女がどのようにその「大人」の言葉を受け取っているか、この文章からは想像しかできないが、あまりポジティブな受け止め方はしていないことは分かった。

そう、世の中は厳しいよね。

確かに我々は社会の一員だし、みんなのために自分がどう生きるかを意識する必要はあると思うのだが、子供や若者にそれを強要するのはなんだかかわいそうな気がする。

若者たちに向かって「世の中は厳しいものだ」と語る先輩諸氏たちの思いは、ある人は「だから頑張れ」というエールかもしれないし、または「俺はそんな厳しい世の中を戦っているんだぞ、えっへん」というアホなマウンティングかもしれない。

若かりし頃、私自身は何を思っていたんだろうかと、この女の子の感想を読みながら考えた。

自分は大学を中退して、ある日突然出会った北極という世界に導かれ、以降は就職するわけでもなくせっせと北極通いに精を出した。気がついたら20年経ち、今年で43歳だ。持っている資格といえば、普通自動車免許くらいで、他に社会で「潰し」が効くようなスキルも持っていない。

若い頃、日本にいる間にはアルバイトを掛け持ちして資金を作り、それで北極に行くことを繰り返した。ある意味、社会は無関係なものとして、北極と自分の世界に埋没しきっていた。

20代の一人の若者が、日本の「生産性」を無視して北極に行くことが正しいことだとは別に思わない。ただ、間違っているとも思わない。

しかし、最近になってよく思うことは、自分一人で北極に行った気になっているが、日本社会という受け皿があってこそ好き勝手にできていることだし、好きにできている時点で我々は恵まれた社会に生きている証拠である。もし私が経済的に厳しい国の農村にでも生まれていれば、北極どころか海外に行く機会すら得られないまま一生を終えていることだろう。経済だけじゃない、おかげさまで健康体に生まれて育ててくれた環境も奇跡的だ。

自分は、日本という極めて許容力のある社会に生かされていたからこそ、ここまで好きに出来ているのだという実感がある。

そのおかげで、人とは違う体験を沢山させてもらうことが出来た。

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みんなが自分と同じようなことをすればいいとは決して思わない。みんなが冒険家になったら社会が立ち行かない。誰も就職もせず、好き勝手歩き回られたら現状の日本社会は維持できない。私が甘えられる社会を維持してくれる人がいるから、社会に背を向けながら北極に通えたなんて、こんな当たり前のことはだいぶ後になってから自覚する。

バイトだけして北極に通い続けた日々は、私自身が社会から距離を置いていたと言える。厳しい世の中に背を向けて、自己と北極だけに向き合っていた。社会から逃げていたつもりはないが、もしかしたら心の何処かに逃げの気持ちもあったかもしれない。隠さず言えば、この北極に通う日々を続けた先には、必ず社会と向き合わざるを得ない時がやってくる、ただ、今はまだその時期ではないと感じていた。

社会と向き合い始めたのは、北極点の挑戦を行うようになり、費用が一千万円規模になった段階で、自費ではない「人のお金」を集めざるを得なくなってからだ。そのタイミングで思ったことは「いよいよ来るべき時が来たな」という感覚だった。社会に飛び込んで行く時だ。

30歳を過ぎて初めて出た社会は、私にとっては厳しいものではなく、北極にはない新しい未知に溢れた場所だった。良い人も悪い人も、楽しい人もムカつく人もいるが、全部ひっくるめて厳しい世の中は無限の未知に溢れたフロンティアに感じた。

社会は面白い、そう純粋に思ったものだ。

子供たちや若い人たちに、社会の厳しさを説き、社会の一員として自利に執着して生きることは間違っている!と教え込むことは、若者の力を抑制させてしまう気もする。体力気力の充実と、精神的なしがらみの束縛を未だ持たないことが若者の若者たる特権なはずだ。自己満足、大いに結構。利己的、それの何が悪い。モテたいとか、稼ぎたいとか、見栄を張りたいとか、普通に思うものだろう。それらを否定することは若者であることを否定することに他ならない。

「人に迷惑をかけないように生きましょう」などと言われがちだが「生きることは誰かしらに迷惑がかかるのは仕方ないこと。だからこそどう生きるか考えましょう」という教育もいいんじゃないかと思う。生きることは、何かの犠牲の上にしか生命をつなぐことはできないのだから。

日本の社会は経済的にも精神的にも、世界有数の許容力のある社会だと思う。挑戦を受け止めてくれる社会であり、いくらでもリカバリーの効く社会だ。いや、そんなに甘くないよ、という人もいるだろうが、そんな人が若者たちに「世の中はねぇ、厳しいもんだよぉ」としたり顔で話しているんだろう。

極論を言えば、若者の一人や二人が好き勝手やっても生きられる社会だし、それくらい社会は受け止めてくれるので心配するな!と言いたい。

その一人や二人の好き勝手が、やがて多くの人たちの指針となる日が来るかもしれない。いや、来なくても良い。何かのアクションを起こしたという厳然たる事実は残る。

私はこれまでかなり社会に甘えさせてもらった。今でも甘えている。昨年の若者たちを連れての北極行は、自分にできる社会への恩返しでもある。おかげさまで私はここまでできるようになりました、一つ、そのいただいた能力を使って若者たちに冒険の場を体験してもらうお手伝いくらいはさせていただきます、という思いだった。

最後の最後、日本社会においてはどうしようもなくなれば甘えて生きることも出来るのだから、少しの「覚悟」を持って、どんどん挑戦して、これまで知らなかった広い世界の一端に触れられる権利を行使しないで死ぬのはもったいないのだよ、ということだ。

その権利は、地球上の人すべてに等しく与えられているものでもない。挑戦したくても政治的、経済的、文化的…様々な理由でやりたいことも出来ない人が沢山いる地球上で、日本ではその挑戦権は多くの人が手にすることができるのだと自覚すると、厳しい世の中への見る目も変わるんじゃないだろうか。

「やりたいことをやる」ということは、そういうことなのだと思う。

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