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行為を言葉でどこまで説明できるか。冒険探検に変わる第三の言葉を探す

冒険と探検

私は「北極冒険家」という肩書きを名乗っている。

昨年から冒険研究所書店という本屋をやっているので、書店主でもある。一般的には、冒険家の方で通っているのだが、私は「探検家」ではない。

時々「北極を探検している、冒険家の荻田さん」と紹介されたりするが、それは仕方ない。多くの人は、冒険と探検をごちゃ混ぜに使っていることが多く、それこそその二つの言葉の語義をいちいち分解して考えるなんてことは、普通はしない。

これが、ひと昔前の大学探検部とか、現在でも一部の探検部あたりでは、部室や居酒屋で口角泡を飛ばしながら「俺たちがやっているのは、冒険じゃない!探検なんだ!」「探検とはかくあるべきだ!」なんて、酔っ払った部員が他の部員に説教をするように激論を繰り広げていた、ようである。自分はその世界にいなかったので、あくまでも見聞として。

そもそも、冒険と探検は違う。何が違うのかといえば、日本語が違う。

一般的な日常を生きている皆様方は、さて、何が違うのだろうか?とよく分からないままに「北極を探検する冒険家」という具合にごちゃ混ぜにしているかもしれないが、実は皆さんも深層では違いを理解して使い分けている。

例えば、あなたの友人があなたに対して「俺、有り金を全部ビットコインに突っ込んだんだよね」と言ったとする。その時あなたは「おいおい、ずいぶん冒険したな」と答えるはずだ。そこで「おいおい、ずいぶん探検したな」とは言わないはずだ。その時点で、冒険と探検の語義を理解して使い分けている。

冒険とは、日本語を分解すれば「危険を冒す」こと。冒険の「険」の字は「危険」のこと。「こざと偏」の「険」である。

一方の探検では、実は「検」の字が違う。こちらは「木偏」の「検」であり、それは「検査」「検証」などに使われる。訓読みで「検べる」「しらべる」である。

つまり「冒険」とは「危険を冒す」ことであり、「探検」とは「探り検べる」こと。

ビットコインに有り金を注ぎ込むのは、探り検べる行為ではなく、危険を冒すこと、リスキーなことなので「冒険」を使う。

では、私は「冒険家」と名乗っているわけだから、危険を冒しに北極へ行っている人であるのか?と言われると、これは全力で否定する。もちろん、危険は伴う。危険を伴うから冒険になりうるのだが「危険を冒す」ということが私の行為においての第一義では、全くない。

F1レーサーだって、危険を伴う行為をしている。格闘家だって、危険を伴う。しかし、彼らは危険を冒すためにサーキットを走っているわけでも、リングに上がっているわけでもない。

危険は、その行為を通して避けては通れない、前提条件のようなもの。極端に言えば、マラソンを走るには酸素を吸う必要があり、酸素があることが前提条件になっているのだが、マラソンランナーは酸素を吸うために走っているのではない。冒険家が冒険と呼ばれる行為をするときには、危険がある必要があり、危険が存在していることが前提条件になっているのだが、危険を冒すためにその行為をしているわけではない。

英単語から考える

英単語を見てみると、adventureとかexploreなどの単語がある。その単語を辞書で調べると、大抵は「冒険」「探検」と書かれている。
adventureの語義を分解してみれば「外に対して拡大していく行為」という言葉であり、exploreであれば「外に叫ぶ行為」である。

「外に対して拡大すること」=「危険を冒すこと」であるだろうか?
「外に叫ぶ行為」=「探り検べること」これは実は語義としては近い。しかし「危険を冒すこと」ではもちろんない。

では、なぜadventureやexploreに対して「冒険」「探検」という言葉を当てているか?と言えば、他に言葉がないからだ。他に適当な日本語が存在しないから仕方なく、その言葉を使っている。

「外に対して拡大すること」というadventureに対して「危険を冒すこと」という日本語を当てている時点で無理がある。adventureの持っている語義に対して、全く危険やリスクの話をしていないのに、日本語にすると急に危険の話になる。これもやや極端に言えば、adventureの訳として「リンゴを食べる」と当てているのと変わらない。いや、リンゴの話なんて何にもしてないのに、なんで急にリンゴの話になったのだ、と。adventureの話をしていたのに、なぜ急に危険が訳の中に出てくるのだ、ということだ。

行為と言葉のギャップがあるのは当然だが、日本語と英語のギャップもまたここにある。

第三の言葉を探す

はるか以前から、大学の探検部で議論される「冒険か探検か」の話がなぜなかなか決着を見られないかといえば、日本語としての「冒険」「探検」の言葉の足りなさがある。それぞれが頭の中に思い描いている行為に対して、言葉が全然足りていないのだ。

言葉の足りなさを感じているのは、私も同じだ。自分では「冒険家」と名乗っているのだが、全く自分のやろうとしていることを表していると思っていない。それしか適当な言葉がないので、仕方なく「冒険家」を使っているに過ぎない。

私はずいぶん前から「冒険」「探検」ではない、新たな第三の言葉を探している。もう少し、自分のやっていることに接近できる言葉を。

人間は、言葉を使わないと理論的に整理ができないが、言葉にした瞬間に本質から遠ざかるというジレンマもある。

新しい日本語の単語を作るつもりで考えているのだが、なかなか良い言葉が思いつかない。その言葉を発したときに「冒険、探検を言い換えた新しい単語だね」と、それを聞いた人が初めて聞いた言葉であるにも関わらず理解できる言葉。それが、新しく根付いていく言葉になる。

例えば「真逆」という単語。これは「正反対」を言い換えた言葉であるが、かつては「真逆」という言葉はなかった。もしかしたら、日本語の長い歴史の中では存在していたのかもしれないが、人々の意識の中には存在せず、事実上ない言葉だった。

しかし、ある日誰かが「真逆」と言い出した。みんな、初めて聞く日本語であるにも関わらず「正反対の言い換えね」と理解できた。それが根付いていく言葉だ。

「冒険」「探検」を、その語義をもっと本質に迫らせながら、どう言い換えていくか?私は後段の「けん」の字は大事だと思っている。「ぼうけん」「たんけん」の言い換えであるなら「◯◯けん」である方が音韻として入りやすいのではないか?

そうやってずっと考えているのだが、実は私の中で「けん」の字を発見した。

「険」でも「検」でもない、第三の「けん」

それは

「験」である。

「験」の字がもつ語義は「試す」「効果」ということ。「実験」は「実際にためす」こと。「経験」は「ためしたことのないことを、ためしていくこと」
「効験」は「何かの効果」
「修験」は「山野を歩き、その効果を修めること」

自分がやっている、極地を歩くことに極めて接近できた感覚がある。

自分は、ずっと試してきた。誰も足を踏み入れない場所で、存在しない道具を作り出し、自分がどこまでできるかを常に試してきた。人類の歴史は、試し続けてきた歴史だ。挑戦の歴史とは、試す歴史だ。

「◯験」

さて、では前段の◯に収まる言葉はなんだろう????

「何けん」なんだろうか!?

未だ模索中である。皆さんのご意見もお待ちしています。





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