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共感を得ることとは何か

北極を歩き出してもう20年になる。

2000年から始めた極地冒険は、2012年まではアルバイトをしながら貯めた資金で行なっていた。その頃の冒険費用は一回あたり100〜200万円ほどであり、日本にいる間の半年ほどで貯めていた。

2012年から北極点や南極点などの遠征を行うようになると、資金の規模も大きくなり、一回あたりが1000〜2000万円と、一桁上がることになった。

そもそもなぜ、それほど桁が上がるのかと言えば、かつてアルバイトをしながら行なっていた極地冒険が、イヌイットの集落を繋いで歩くような形式であり、日本から現地までの移動が定期便の飛行機を使うことができた一方で、北極点や南極点となると、スタートもゴールも、それぞれが人の住む地域から遠く離れた無人地帯であることから、それぞれへの移動に飛行機をチャーターする必要が出てくることが大きな要因となる。

北極点挑戦を視野に入れ始めた2010年ごろから、自費だけではない「他者の資金」を頼る必要に迫られた。企業のスポンサーであったり、一般の方々からのカンパを募るなど、その都度工面した資金で遠征を行うようになっていった。

冒険は自己満足の産物だ。私が北極や南極を歩くのは、世のため人のためでもなく、何よりも自分の為である。そんな行為のために、他者からお金を集める。しかも、企業からスポンサーを募るなど、果たしてどうやって実現すれば良いかは、全く雲をつかむような話であり、最初はひたすら企業への飛び込みをしてみたり、様々なことをやってきた。

ちなみに、そのあたりの詳しい話、どうやって具体的に企業がスポンサーとして応援してくれるようになっていったかを知りたい方は、私の本「考える脚」の第3章に詳しーーーーく書いているので、ぜひ読んでね笑

さて、共感の話である。

先日、とある人と食事をしながら極地での冒険の資金集めのことなどを話していたところ、こんなことを言われた。

「若い人たちにも、そうやって共感されるような生き方をしてもらいたいですね」

スポンサー企業が、まだ実績も大してなかった私に対して応援をしてくれるというのは、私に共感意識を持ってくれたからに他ならない。そのことを受けての言葉だった。

その言葉に対して、私はやや違和感を覚えて、返した。

「実は、今のお言葉にはちょっと異論があるんですよね。」

「え?どういうことですか?」

「確かに私の冒険に対して共感をして応援してくれる人はたくさんいるからこそ、実現できているのですが、私は共感されるように生きてきたつもりもなくて、やや大袈裟に言えば、共感されなくても良いや、誰にも共感されなくても仕方ないや、と思っていたんです。
共感されるっていうのは、結果的に発生する現象でしかなくて、それを目指しているわけでもないと思うんです。’’共感してもらう生き方をする’’ということは、共感してもらえないとしたら、そもそもの行動を起こすこともやめてしまう気がします。誰も自分に共感してくれなくても、それでも俺は一人でやる、という気持ちで動いていると、結果的に誰かが共感してくれていた、そしてそれがどんどん増えていった、ということだと思うんですよね。」

じゃあ、共感されないでも良いからそのつもりでいれば共感されるのか、ということではない。その理論では、共感されるように共感を得ないように振る舞うということであり、ようは共感を得ることを目指している。

結局のところ、共感は’’どうでも良い’’のである。

されるときはされるし、されないときはされない。それでもやるのかやらないのか、そこだけだ。

共感を得ることは、ただの手段であって目的ではない。

この話は、果たして冒険は社会の役に立つのか立たないのか、という議論にも通じる。

社会の役に立たないはずの冒険も、社会と出会い、人の世に交わることで、知らぬ間に他者に影響を与えて役に立つこともある、というくらいのことだと思う。役に立つか立たないかは、結果的に起きる現象であって、それを目的としてはいない。

そもそも自己満足の行為なのだから、人の役に立つとか立たないとかは、議論の前提になかったはずなのだ。心が動く、見たい知りたい試したいという、根源的な欲求を行動に移すことで、社会と必然的に出会い、言葉を尽くしていくうちに、その言葉は傾向性を持ち、まるで社会が抱える矛盾や問題点の代弁者のように語り出す冒険者が生まれてくる。しかし、その冒険者自身も、語る言葉の中にどこか矛盾や違和感を抱えている。

では、社会の役に立たない無目的であるべきか、というと、これもまた間違っている。それは無目的を目的化していることになり、恣意性の枠内に収まっていくことになる。

共感されること、役に立つこと、目的を得ること、全ては結果の話だ。行為の前に用意されておらず、行為の後に顕現してくる現象でしかない。

恣意的な共感意識、目的意識、社会性など全部無視すると、人間一人の小さい頭で考えていた恣意の枠から解き放たれた、思いもよらぬ未来に到達できるはずだ。

そうやって生きていく意識を持ち、行動した多くの人は報われないだろう。さて、それもでやるのかやらないのか。だったらやらない、という人には、共感は集まりにくいだろう。


補足:夜中にわーっと書いて、ろくに推敲もせずアップしているので、言葉足らずなところがあるかなと感じての補足。

別に、共感なんていらねー!って話ではなく、他人の頭で感じる共感の心配をせずに、自分の行動を真摯に取り組むことがまず大事で、そこが間違いなければ共感は自ずと集まるはずだ、というのが言いたいことです。

まず自分の行動が第一にあり、そのあとに他者の共感がある。

共感を得ることは大事だし、純粋に嬉しいことだけれども、そこに囚われると他人の目があなたを縛り、身動きが取れなくなる恐れがあるので要注意。くらいかな。

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