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エッセイ「想像の中、再開発都市、郷愁」

時々、SF映画を見たとき(この間は押井守さんのイノセンスを観ました。何回見てもいい)に思い浮かべることがある。こんなの誰だって一度は思い浮かべることだろうが、ここは現実なのか?ということだ。

もはやありきたりなSFの設定。マトリックスから始まって、数え切れないほど複製された。最近の攻殻機動隊もそんな話だった。

こんな陳腐な考えをマトリックスを見て一度は考え、多くの人は青年期辺りに捨ててしまうはず。けどふと考えてしまうのはなぜなのだろう。

この間、テレビでどこかの地方に鉄道路線が開通し、その地の利を生かしてある土地が再開発されたニュースを観た。以前まで何もなかった、林だらけの土地が見る見るうちに発展したそうだ。

そこには高いビルが建っていた。周りには最も効率のいい、便宜な施設が建てられていた。例えばショッピングモール、ドラックストア、保育園、アパレルショップ。生活することに何不自由なく、すべてが揃うようにお膳立てされているようだった。再開発都市は見事に完成していた。

テレビで記者は、いくつかの住人にインタビューをしていた。その多くは子供連れの夫婦だった。それも見事に完成された夫婦だった。

僕はそのテレビを観て、住みやすい街なのだなと素直に思った。と同時に、不気味の谷みたいに奇妙な感覚を抱いた。その再開発都市があまりに見事すぎるから、まるでミニチュアで作り上げた都市なんじゃないかと思えた。

なんだかすべてが揃っているからこそ、住人はもう何も悩む必要のない、自明な都市のように見えたのだ。空の上から誰かが見下ろしていて、いざとなれば腕を伸ばし、指一本でビルなんて粉々にできたり、人ひとりをつまみ出せそうな。そんな雰囲気さえあった。

そんな他愛もない妙なことを考えた後、ふと周辺を見渡してみたのだ。いったいどこに現実があるのだろうか?と。

だって部屋の中にも外にも、何一つ自然なものはない。

今見ているテレビ、座っているソファ、着ている服、膝に置いたパソコン、食べているクッキー、照明にタンス。全て人工物、想像上の代物。育てている植物だって誰かの手で作り上げた人工物だ。揚げるとキリがない。

窓の風景に移るのはマンション、マンション、マンション。木造の一軒家にコンビニエンスストアとオフィスビル。駐車場にコンクリートの道路。スバルやら日産やらトヨタの車がせわしなく走り回っている。

唯一自然と言えそうなものなんて、公園に咲いている雑草くらいだろうか?それだって定期的に駆除されるはずだ。

驚くほど人工物。徹底して建造物。人が頭の中で想像したものをそっくりそのまま具現化したもの。予測不可能な自然に対して、何とか駆逐しようと藻掻いた結果の、その究極系。

都市はつまるところ、想像の中なのだ。

よくこの世は仮想世界なんじゃないのかとか、今後仮想世界にダイブできる時代がやってきて、現実と仮想の境目がなくなる。テクノロジーの時代はもうその領域に達しようとしている。そんな話題を見かけることがある。

けれど、ここまで想像したモノの中で暮らし続けていることに、現実と仮想の境目がないとどうしていえるのだろうか?むしろもうとっくに仮想の中に住んでいると言えないだろうか?まるでマトリックスだ。

再開発都市に見出した奇妙さはこれにある。
完璧な都市だから、人の動きもある程度予測した上で開発されるのだろう。想像で作られた場所で想像通りに物事が進む。そこは既に仮想だ。

時々人はノスタルジーを思い浮かべる。

その風景にはある程度の自然がある。山があって、野草が道脇に咲いている。自然にできた川の傍、秋の稲穂は風にゆらゆらと揺れている。町内放送用のスピーカーからはドヴォルザークの「新世界より」が流れ、泥だらけの子供は暖かいご飯が待っている家までかけっこして帰る。そんな、太陽が綺麗に見える夕方。

想像上の郷。血道に作り上げてきた現実という名前の想像に飽き飽きして、本当の現実を取り戻すかのように、逃げるように思い浮かべるまた別の想像。

とっくに多くの人たちは想像の中に生きていて、それに無意識になっている。ある種のパラノイアだ。

だからここが現実なのだろうかと、時々違和感、浮遊感を感じる。誰もが一度はここが現実なのかと疑う理由は、ここにある気がする。

そこはすでに想像の中で考えたものに囲まれているから。

そこは徹底して自然で現実的なものがなく、人の頭の中で作り上げたものと無意識に、優しく包まれているから。

と、くだらないことを本気で考えた夜でした。
SFの見過ぎですね。














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