今、私に向けられた暗号「モモ」
なぜか、物語がよみたいと、この数か月ずっと思っていました。
振り返ると物語は20年くらい読んでいません。実用書だったり、料理本だったり、「手段」「ノウハウ」が書かれている本にしか興味がなかったのですが、夏のスポーツのあと水を欲するように、心の奥から「物語」を欲していたのです。
でも、じゃあ、なにが読みたいの?と思うと、何も思い浮かばない。子どもが持っている小説を読みかけてみるも、あまり心に響かない。これじゃない。そして、何冊か手に取るけれど、心の渇きは癒えないのです。
そんななか、家族が毎回見ている「100分で名著」にミヒャエル・エンデの「モモ」が登場しました。ちらりとしか見ていませんでしたが、妙に気になり、小学生の長女に「学校で借りてきて!」と頼みました。なんとなく、自分で図書館で借りるのではなく、娘に借りてきてほしかったのです。
頼んでからは、「モモ」が私の手に届くのが楽しみでした。毎日、まだかな、まだかなと待っていました。娘が借りてきてくれるまで1週間位要したでしょうか。その間、私は待ち切れず、でも自分で本を入手することは嫌だったので(←ここ、なぜか強いこだわり(;´・ω・))、YouTubeで「モモ」と検索してみました。
オリエンタルラジオのあっちゃんが「モモ」について語っている動画を見つけました。そこでは、「モモ」の時間泥棒の話は第2話からが本題。というようなことが言われていました。この情報を知れたのは、とても幸でした。
私は小学生の時に、「モモ」に挑戦しているのですが、冒頭のあたりで、読んでも読んでも話が頭に入らず、読み進めることができず、挫折していたからです。私にしてみたら、この第1章は「試練の章」。さかさまの小道です。ここを通り抜けた人にだけ、本当の道が開けるような。ですから、この第1章でくじけてはいけない。「面白くない」と本を投げ出してはいけないことを心に刻んだのです。
そして、ついに、娘が「モモ」を借りてきてくれました。
そこからは、2日で一気に読み切りました。(正確には2夜)
今の私にぴったりな、人生の転機になるような出会いだった。それはこれまでの私の生き方があったから。
暇であることに耐えられない性格だと自分で思い、予定をどんどん詰め込み役職をいくつも抱え、残業と子どもの習い事と、自分の趣味とやりたいことをすべてぎゅうぎゅうに詰め込んで、よく事故がおきないなと思うようなスケジュールで生きていました。いつからこんな風に生きていたのか、時間がたくさんあって、暇をもてあましていたのは小学生までだったと思います。中学校から部活が始まって、高校では盆正月以外はすべて部活。社会人になってからもせわしなく動くことになれ、いつも誰かと競争するように(相手の居ない競争です)一刻一秒を争いながら時間の波を乗りこなしている。サーフィンを楽しんでいるような気分に、自分は楽しんでいるのだと思い込ませようとしていたのかもしれません。無意識に。だましていたつもりが、それが本当の気持ちだと思うようになっていたんですね。体のあちこちに不調が出てきても、子どもの様子がおかしいなと思ってみても、頑張ること以外思いつかなかった。足を止めて、立ち止まることを思いつかなかった。
「モモ」を読んで、今までと違う価値観に気づくことができたことは、とてもラッキーだったと思います。
「モモ」を読んでいて、初め「灰色の男たち」がでてきたときは、とても怖かったです。不安でいっぱいになりました。
「時間貯蓄」「無駄をなくせ」「仮面のような顔に同じ姿」「創造する力を使う機会が奪われている子どもたち。単一的なことしかできない玩具を与えられ、予想通りの範囲内の行動にあきあきしている」
どうしてこれらが怖いのか、嫌悪を感じるのか、、、? 学生のころ、お金がないながらも、ただお金を消費する遊びには一切魅力を感じませんでした。ゲームセンターやガチャガチャなど。「お金がないから遊べない」というような価値観にものすごく嫌悪感を抱いていました。それよりも、絵をかくとか、ギターを弾くとか、スポーツをするとか、そういうことが好きでした。
それに対するキーワードは
「箱3つでもあれば、それでどうやった遊ぼうかと考えを巡らせ、遊びを生み出す子どもたち」「本当の声」。
私もこれが、大事なことだと思いました。自分で生み出すことに価値を感じます。「消費すること」ではなく、「創造すること、クリエイトする遊び」です。
そして、「モモ」が「灰色の男たち」からの脅威の中でとった行動がかっこいいのです。
「怖がっちゃいけないと自分に言い聞かせました。そしてありったけの勇気を奮い起こして、闇の中にまっしぐらに入っていきました」。
この気持ちと行動をとれる強さを、今、どれだけの人がもっているだろうかと思わずにはいられません。
私が本を読んでいて感じていた恐怖を、この一節を目にしてからは、「怖がっちゃいけない」とまさに自分に言い聞かせました。怖がっていては相手の思うつぼ。怖がらず、現実を認めて、勇気を持って行動する。これしか恐怖を克服する方法はないのだと改めて思いました。
道路掃除夫ベッポの生き方にも、胸に響くことがたくさんありました。「一つ一つのことに目を向けて取り組む。今を積み重ねて、気づくとゴールにたどり着いている」「時間をかけたとしても、一つのことをじっくり考える」私がこれまで一度もしてこなかったことだったかもしれません。
しかし、このように生きることは、なんと贅沢なことでしょう。今現代においては、なによりも時間が貴重なものになってしまった。時給で働く人たちは、自分の時間をお金に換えている。売った時間は自分の時間ではない。雇用主にささげた時間なのだと。
そう思う人もいれば、雇用主にささげた時間を自分の時間として楽しみながら働いている人もいます。どう思うかは、自分次第。奪われたと思うか、自ら能動的にチームの一員として費やすか。
「モモ」を読み終えて、
一番胸をわしづかみにされたフレーズは、あとがきにあった言葉です。
「この話は、過去のことのように話しましたが、未来のこととして話してもよかったんです」
これは、まさに今の話だと思いました。時計は正確に動くけれど、時間はぐにゃぐにゃ入り乱れていて、過去と今、未来を一つにもする。
この「モモ」にちりばめられた暗号は、その「時」に求めている人に届くような魔法がかけられているんですね、きっと。
今私届いたMessageは
自分の時間を生きるんだ!
未来を創造し、自分で時を生きる
誰かが決めた時を生きることは、時間泥棒に盗まれているということで、自分がなくなってしまうこと
「他者を心配するココロ、時間」「空想にふける時間」「丁寧に時間をかけて所作を行う時間」「考えている時間」これらに費やしている時間は、自分の時を生きている時間。それは、現代における豊かさの一つ。
「カシオペイア」は行きたいところへ行く
自分の時を生きることを大切にして、自分を生きていれば、それが行きたいところへ行くための目印になると、教えてくれていたのかもしれない。
今私に与えられた、唯一の自由。
それは、「モモ」という物語を読んで、「私」がどう感じるかということ。
そこにある事象を、どういうメッセージだと、暗号だと読み解くのかが、私に託された、ただひとつの選択。
私の目に映る世界を、どう感じるのか、どう見るのか、どう生きるのか。 その受け取り方のちがいが、豊かさのちがい。
「時間がない」「急いで」「早く、早く」という言葉を口にするのは、もう終わりにしようと思う。
時間はある。しっかり選択をして、今を十分味わいながら生きていれば、 時間はいつだって、ある。
「ある」と思えば、あるのだ!
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