せをはやみ

みなさま、はじめまして。 noteは始めたばかりです。 よろしくお願いします。 T…

せをはやみ

みなさま、はじめまして。 noteは始めたばかりです。 よろしくお願いします。 Twitterでは、わゐけゑと言う名前で活動していました。冨大哲サーを作った人でもあります。 記事はメモのようなものも多分に含まれています。 読みにくいかと思いますがご容赦ください。

最近の記事

今を生きる

既に満たされている生活について考えてみる。 既に満たされているのならば、何のために自己の快楽を求めるのか?何のためにも求める必要がない。 イマーゴデイ。神の似姿であるのだから、人間は、それらしく生きなければならない。既に完全であるものは、不完全であるものの為に、生きなければならない。 それができるのは、その人には最高で、最善の快楽が既に与えられているからである。なぜならばその人は、好むべきものを好み、憎むべきものを憎むという習慣を養ってしまっているからだ。 好むべきもの

    • 文化とは1

      今日は文化の日なので、文化とは何かについて考えてみましょう。 みなさんは、文化遺産と文化の違いを明確に分けて考えていますか? つまり、文化遺産の方は、かつての文化が生み出した物質的なものがそこにあるだけで、現在そこでその文化的行為がなされているとは限らないんですね。 そして、文化遺産についてどれだけ詳しくなっても、文化的な人間にはなれないですよ。 古代ギリシアの神殿の残骸を見に行ったところで、古代ギリシア文化を自分が受け入れられるわけではないです。 文化とは、思考法

      • 別れの哲学3

        別れるというのは、一種の選択である。 そして別れという選択は、「なんらかのため」になされる。 それというのは、別れた方が少なくとも自分にとって善いかあるいは相手にとってもしくは両方にとってより善いのだと考えて人は別れるからである。もちろん、そういう別れではない別れもある。死別というのがそれだ。死別の場合は死生観が絡む。 ーーーーーーーーーーーーー 別れの哲学、例えば『パイドン』はどうだろうか。ソクラテスは刑死の寸前で魂の不死をといて毒杯を仰いだ。 別れという行為にせよ

        • 別れの哲学2

          それが当然だとなっているのに、それがなされない時に別れを感じる。自分の生の一部として組み込めれている(習慣として)のに、それが無いと言う事は、苦痛を伴うだろう。 この辺りは現象学のテーマに近いかもしれないが、例えば幻肢痛の考察も広げていけば、別れの考察に関わっていく。 ーーーーーーーー それはそうと、別れ方は難しい。 別れ次第でその人との今後が大きく変わる。自分は別れ方が下手な方だ。 それに別れ方といっても自分が最善を喫したとしても相手のある事だ。相手次第なところもあ

          別れの哲学1

          最近は、死生観のテーマが盛んに論じられている。 そこで死別ということが問題になるわけであるが、そもそも全般的に現代人は、「別れ」を正しくできているのだろうか。 私の第一の先生なんかは、現代人のほとんどは「別れ」ができていないと言っていた。 確かに恋人と別れてもすぐに新たな出会いを作ることができる。マッチングアプリでだ。 我々は「別れ」とは何かをもう一度考究し直さなくてはならない。 「別れ」の哲学の筆頭候補としてアウグスティヌスが母モニカと死別した体験の描写は、検討に

          別れの哲学1

          哲学的態度の決定。それからの話。

          どんな哲学的態度を取るにせよ、問題はそれを実行するかしないかではないだろうか。実行しないのであれば、それはまさに空論で言葉遊びに過ぎないのではないか。そして言葉遊びよりも面白い事はいくらもあるのでまったくもって時間の無駄ではないか。 生は短い。時間はいくらあっても足りない。もしも人が何かをなそうとするならば。 さて、私はここで議論を云々するつもりはない。ただただ実践的な道筋を研究したい。そしてそれはおそらく学術的な研究ではない。 しかし、あまりにも不透明だと言っていること

          哲学的態度の決定。それからの話。

          生活の困窮 自業自得

          今、29歳。 何でか今、どこかの大学の聴講生をやっている。 ずっと哲学研究をしていたのだが、正規課程でなくなった今奨学金も借りられずにっちもさっちも行かなくなって、アルバイトをしたわけだけど、全くついていけず2ヶ月で辞めてしまった。 それに学業の方も中途半端になってしまった。誰にも頼ることができないし、それをするべきでもない。早く生活を立て直さないといけない。 と言っても、職を選んでしまう。このままだと来月は持つだろうか。再来月はどうだろうか。 とはいえ、もう勉強以外

          生活の困窮 自業自得

          夢を追うことの愚

          夢を叶えた。 だから、尚更もう夢を遠くに置いてそれを目指して生きていくなんて生き方をしちゃいけない。 とはいえ今まで夢を目指して生きてきて、自分の「現在」を考える事を放棄していたのだ。その私が「現在」を「現在」として生きることなどできるだろうか。 今日一日を、もし摂理が間違えているならそれを捨てるべきで、でもそうじゃないって思っているから、つまり自分自身に問題があるってことが分かっているのだから早急に、自分自身と和解して、神の似姿として相応しく生きるべきだ。 今日のこの

          夢を追うことの愚

          働きの中にこそ休息があるのだ

          これはヒルティーの言葉である。 ヨゼフピーパーもこういうことを言っているのだろうか。読んではいないけど。 余暇、労働、休息、祝祭 これはどう関わっているだろうか。 誰もが、常に仕事モードなわけはない。 仕事の人格と遊びの人格をオンオフ切り替えることが大事。でもそれは人格が分裂しているぞ。 自分を保ったまま、労働と休息をできないか。 まぁそれはそれとして、プラトンだって人間のことを神の操り人間だといって、人間はそれらしいものとして遊ばなければならないんだが、 よう

          働きの中にこそ休息があるのだ

          醜い私の気持ち

          理想的な生活は、理想的な生活ではなかった。 なぜ、自分が理想的な生活と承服しているのに、それに従えないのか。それは私がそれを理想的だとは思っていないからに他ならない。つまり私には率直性が足りてないのだ。 本当は、酒池肉林ではないが、食も性も奔放に生きたいのだろう。ではなぜそうもしないかと言えば、そうする為には金がいるが、私には金がなく、せいぜいネットでも見て鬱憤を晴らすのだ。 進めない。そしてそれが私に1番快い。つまり、私は欲求のままに振る舞いながらも、そういう事をして

          醜い私の気持ち

          哲学愛好家がママチャリで京都ー岡山を往復しようと試みた

          私は、京都に住む。パートナーは岡山に住んでいるのだが、私はその往復を新快速ではなくて自転車、それもママチャリで試みた。 私は、電車や飛行機、あるいはバスと言ったものは場所と場所を点として繋いでいるだけで線になっているようには思えない。 だから感覚としては、地図上では京都から岡山の間にはさまざまな愉快な都市があるはずであるのに、それが全く消え去って、無となってしまい(電車の中にいるので)、私は京都と岡山が実際に繋がっているのか、怪しくなってきたから、確かめてみようというよう

          哲学愛好家がママチャリで京都ー岡山を往復しようと試みた

          私の受けた教育の行方

          私は、さまざまな大学を転々としている。 指導教官は、 一度目はアウグスティヌスの研究者 二度目はライプニッツの研究者 三度目はアウグスティヌスの研究者 そして四度目はプラトンの研究者 であった。 それはそうと、一度目の研究者の教育に心を打たれて哲学の道に進んできたのだが、そしてこの道こそが私にとっての「理想的」な道なのであったのだが、この人のおかげで私は沢山の摩擦を生んでしまった。 つまり、次のように私は考えていたのだ。研究と思索は違うのだ。そして研究と教育も違うのだ。人

          私の受けた教育の行方

          理想的に生きたいという感情の低下3

          「理想的に生きたい」と思うということは、裏を返せば、現状では満足できていないということでもある。つまり、そういう理想的な生に思いを馳せることがないという状態こそが、満ち足りた理想的な生き方なのかもしれない それはさておき、私は「感情の低下」という言葉を使ったが、それは一体どういうことなのだろうか。感情というものは、そもそもが上昇下降の激しいものなのではないか。そして、そもそも「感情」とは一体なにであると考えているのか。思い出は感情だろうか。空腹感とは、感情なのか感覚なのか。

          理想的に生きたいという感情の低下3

          理想的に生きたいという感情の低下2

          王位を手に入れるまでや、権力の座に登るまでは、懸命に頑張るが、その座に着いた途端に遊び呆けてしまうことが考えられる。 それであるとか、ストア派の哲人に物質的享楽を強引に与え続けるとすればどうなるだろうか。 いや、こういう事は言ってしまえばよくある話なのではないか。恋人なり家庭ができると、世俗的な栄達がどうしても絡んでしまう。そして、物質的な満足感も知る。 そしてこういう状況は果たして善い状況であると言えるのか。結局、その物質的享楽のための奴隷になってはいないか。いつか報

          理想的に生きたいという感情の低下2

          理想的に生きたいという感情の低下

          はじめまして。 最近は、書きたい衝動が大分低下しています。 そこが不思議だなと思い何か答えを出したいと思い、文を書いてみることにしました。 自分は以前は文を懸命に書いて、理想に燃えていたのですが、今は全くといってそういうものが喪失してしまっています。 そこで、自分が「理想に燃えて活動する」という状態は、必要な状態なのか、どうすればどういう状態をつくれるのか、あるいはそれは単なる人間の成長過程の一つの感情に過ぎず、実際のところはそんなものは不要であるのか、あるいは、自分が

          理想的に生きたいという感情の低下