別れの哲学3

別れるというのは、一種の選択である。
そして別れという選択は、「なんらかのため」になされる。

それというのは、別れた方が少なくとも自分にとって善いかあるいは相手にとってもしくは両方にとってより善いのだと考えて人は別れるからである。もちろん、そういう別れではない別れもある。死別というのがそれだ。死別の場合は死生観が絡む。

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別れの哲学、例えば『パイドン』はどうだろうか。ソクラテスは刑死の寸前で魂の不死をといて毒杯を仰いだ。

別れという行為にせよ、出会いという行為にせよ、相手の為になっていなければならない。死という事態でさえ、残す相手に何らか善いものを残そうとするのは見事だ。

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別れた人との記憶というのは、何だろう。プラトンにとってソクラテスとの、別離はどういう事を意味したのだろう。

そもそも人は、他の人といっしょにいることはどういうことを指すのだろう。

例えばだが、物理的にはそばにいて、つまり同じ部屋にいるのに心は通じ合えていない、つまりお互いのことをよく知らないという場合は、一緒にいるといえるだろうか。
また物理的には離れているが、お互いのことをよく知っている時に、その人のことを考えるなら、それはそばに居ないということになるのだろうか。

物理的な離別と精神的な離別があるのかもしれない。


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別れは心の痛みを伴うものと伴わないものがある。出会いにも嬉しさが生じる場合とそうでない場合があるように。

つまりそれは、これからその人との間に生じる事態が自分に好ましいと予見できる場合に喜び、そうでなければ喜ばず、別れは、その人との間に生じるものが失われることに対する苦痛の予見に依るのではないか。

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