私の受けた教育の行方

私は、さまざまな大学を転々としている。
指導教官は、
一度目はアウグスティヌスの研究者
二度目はライプニッツの研究者
三度目はアウグスティヌスの研究者
そして四度目はプラトンの研究者
であった。

それはそうと、一度目の研究者の教育に心を打たれて哲学の道に進んできたのだが、そしてこの道こそが私にとっての「理想的」な道なのであったのだが、この人のおかげで私は沢山の摩擦を生んでしまった。

つまり、次のように私は考えていたのだ。研究と思索は違うのだ。そして研究と教育も違うのだ。人間をまさに「人間」として教育することこそ、哲学者に必要なスキルなのではないかと。

先行文献の整理だとか、原典にあたるとか、諸説を頭に詰め込みまくるといったような、研究をする事は哲学的なはずがないと。

私は、それで意地をはって、授業も論文の指導でもあまり言うことをきかなかった。むしろ、なぜこの先生たちは、ソフィストがやるようなことをしてばっかりで人間にとって重要なことを論議しないのかと苛立ちさえしていた。そういうソフィストではなくて私が幸福に生きるために必要な思想と実践について、明確にかつ筋が通った知的な仕方で指導してくれるような指導者を探していたのだ。しかし、そういう指導者には、1番目の指導教官がそれに近いけれども、それ以降は出会えてはいない。

だが、どうやらこれは大学の種類の問題なのかもしれない。高い偏差値のところへ行けば行くほど、研究上のスキルの向上こそが要求される。偏差値の低いところは、人格教育の延長が目的なのであって研究者の育成が主な目的ではない。そういう、住み分けだったのかもしれない。

とはいえ、高偏差値の大学ではそのような人格教育は必要がないのだろうか。昔はあるとされており、教養部があったらしい。しかし今はそうではない。早速専門知識や厳密な研究方法が詰め込まれていく。

逆説的になるが、偏差値の低い大学で人格教育が生き残り、高いところではなくなり、その限りで偏差値の低い大学の学生の方がより人格的となる場合もあるのではないか。もちろん研究者としては見向きもされないだろうが。なぜなら語学や論点を整理していく研究スキルは持っていないのだから。

そして、最終的に私は、摩擦を避けるために研究スキルを養成するための指導を受けることを積極的に甘んじることにした。だがその代わりにより不確かではあるかもしれないが、人が生きる上でより有益になりそうな思索を自由にこちらで展開していきたい。

このようにすることで厳密な「研究」と人間がまさに必要としている知恵を両輪的に獲得していけると考えたからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?