今を生きる

既に満たされている生活について考えてみる。
既に満たされているのならば、何のために自己の快楽を求めるのか?何のためにも求める必要がない。

イマーゴデイ。神の似姿であるのだから、人間は、それらしく生きなければならない。既に完全であるものは、不完全であるものの為に、生きなければならない。

それができるのは、その人には最高で、最善の快楽が既に与えられているからである。なぜならばその人は、好むべきものを好み、憎むべきものを憎むという習慣を養ってしまっているからだ。

好むべきもののうちで最も好むべきものは、既に与えられている。そこからくる働きにこそ快楽を感じることが重要だ。

それ以外の世俗的な諸々のことについて一喜一憂してはならない。

では、私は他者のために何ができるのか。
私は、私を救った思想によって他者を救いたい。私は、それ以外に他者を救える方法を知らない。

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では、どのようにして生きれば良い。
私は「今、此処」を生きている人間なのだ。

「今、此処」にも「将来と彼処」にも最高の快楽が与えられるのだ。

では、私は何のためにネットをするのか?
何のために映画をみるのか?
何のために人と話すのか?
何のために音楽を聞くのか?

時間は有限だ
何のために時間を使うのか。

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いや、私は病気だ。
重病だ。

「好むべきものを好み、憎むべきものを憎む」と言うことを私は修得していない。

一体、いつまで?
とれ、よめ、とれ、よめ
と聞こえてきそうなのだが

明日になれば、私は、もうこの悪習とおさらばするのだ。その明日がなぜ、今日こないのか。

私は悪習を自力で変えられない。
私は自己を過信している。
ダメだ。

でも、自分一人でいた方がマシなような気もする。

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それゆえ、過激さでもって徹底的に昇華させなければならない。

苛烈さが必要だ。

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