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淀川三十石船その2

三十石舟の実測

京都伏見桃山の旅館、桃山温泉月見館には三十石船がある。

かつては宇治川に舟を浮かべ、宿泊客を乗せ、宿泊客をもてなしていたとのことで、今回実測したのはそういった船だ。

実測することで淀川水系にまつわる舟への理解が深まるかもしれないし、知られざるエピソードを掘り起こせるかも知れない。どうであれ、木造和船は失われる一方で、記録は手の届く限り尽くさなければならない。

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写真上:シキ(船底)とハタ(舷側)を接合する釘の間隔は18cm程度。釘の長さは125mm内外。シキ、ハタ、共に厚みは40mm。


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写真上:櫓杭

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写真上:ハタの縫い釘の間隔はやはり18cmから21cm程。6寸間隔と7寸間隔を交互にということかもしれない。方向も交互に変えている。
縫い釘の長さは150mm程度。

実測図

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「月見館の三十石船」のこと

旅館の方から、この船のことを少し聞くことが出来た。謂く、
▪️作られたのは昭和初期。
▪️昭和30~40年代に強化プラスチック製の船に替え、以来陸に上げ旅館前に展示している。
▪️宇治川の河原で、伏見の船大工が作った。(野天で、野崎家のどなたか、らしい)
▪️旅館前の宇治川から淀川に出て八軒屋まで行っていた。動力船で引いていたとのこと。
▪️八軒屋まで行かず、旅館近くの宇治川に浮かべ、他の小舟で網打ちし捕まえた魚をこの船上で調理し提供することもあった。魚はハヤ。天ぷらにした。
▪️天ヶ瀬ダムが出来たのと、琵琶湖の水位が下がったため宇治川の水位が下がり、それまで使っていた船着場が使えなくなった。それ以来船遊びは出来なくなった。


この船のことを本記事では「月見館の三十石船」と呼びたい。というのも「淀川三十石船その1」で触れた通り、京都大阪圏で見かける三十石船の資料、特に模型に、個人的に疑念を抱いているからだ。
京都大阪近辺の三十石船の模型や図面の多くは一本水押しになっている。

水押004

一本水押しはスタンダードな「和船」の水押しで、時代劇に出てくる船はほとんどこれ。話はそれるが、大河ドラマの「西郷どん」の、西郷隆盛が島に蟄居していたシーンで登場する船は一本水押しではなくて、「サバニ」みたいな形だったような気がする。細かいところまで調べてるなあと感心したことを覚えている。

「淀川三十石船その1」を公開した後、文献にもあたり、研究者に電話もかけ、このことをさらに調べてみた。参照は以下に挙げる二冊。淀川水系で使われた船に対する認識がとても明瞭になった。
歴史と民俗 32号 織野英史氏の論による二枚水押船ー淀川・大和川水系の主要川船 ←三十石船とは関係ないが、同書籍の中の「八丈島のフナダマサン」は非常に興味深いです。船に花嫁が嫁ぐ風習について書かれている。
川名 登 著 近世日本の川船研究〈下〉 淀川だけでなく広く川船についての研究がまとめられている。船の構造よりもむしろ内水面の舟運制度について詳しく、大きな利権を生んでいたことがわかる。
これらの本のを読むと、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、落語の「三十石 夢の通い路」で描かれる「淀川三十石船」は二枚水押し構造の船だったんだろういう結論に落ち着くはずだ。

この「月見館 三十石船」は、それまでの三十石船がことごとくなくなってしまって、記録や記憶も乏しい中で生まれた船なんじゃないかな、と想像している。
多分、「月見館の三十石船」は「淀川三十石船」ではない。それどころか、ひょっとすると「月見館の三十石船」が三十石船=一本水押しという見立てを広める一因にもなったのかもしれない。

「淀川三十石船」といって、一本水押しの船を持ち出すのには問題があると思う。そうすることで近畿地方に特有の二枚水押し構造の船が視界の隅に追いやられてしまうということが一番の問題だ。

とは言えこの「月見館の三十石船」の存在を否定するつもりは毛頭ない。この船は「淀川三十石船」の歴史の終盤に現れたものであることは確かで、豊かで楽しい時間をもたらしたのだから。

実測を終え、無事図面が完成したことを安心している。

次回、「巨椋池の漁船」に続く。


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