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恋愛小説、書けません。/Lesson25:「その時間は穏やかに」

 耀介が目を覚ますと、南向きのバルコニーのガラス戸から燦々と太陽が降り注いでいた。気がつくと、ガラス戸が開け放たれ、髪の毛を一つに纏めたジャージ姿の女性。

「耀介、起きたの?」
「……ああ……」
 どうにか普通に返答したが、耀介の心の中で鼓動が高鳴るような気がした。熱のせいだな、と勝手な回答を頭の中に浮かべる。
 笑顔が眩しく見えるのは、気のせいだろうか。絢乃の笑顔は、何故か耀介の視線を絢乃ではない所へ向けてしまう。
「具合は?」
「少しは落ち着いたと思う」
「一応体温計で熱測ろうか。まだ顔赤いし」
 絢乃がまるで自分の母親のように甲斐甲斐しく世話をする。体温計を渡されたその白い手をどうしても見てしまう。
 何だか俺はどうかしている。耀介はとにかくこの熱から解放されたいと思い、大人しく体温計を脇に挟む。
 しかし無情にも、その「熱」が消えないことを知らせる電子音が響く。絢乃はデジタル表示を眉間に皺を寄せながら見つめる。そして耀介へ一言。「ありゃ、まだ38度切らないね。本日も安静でいること! それと溜まってた洗濯物は私が洗っておいたから。後は……えっと」
 絢乃の口から飛び出した発言に、耀介はベッドから落ちそうになる。
「待て! 俺の服を洗ったのか!?」
「そうよ。誰の服を洗うのよ?」
「し、し、し、下着とかあっただろう!?」
「……お子様なの? 男性の下着ぐらいで狼狽うろたえるようなことはありません」
 赤面する耀介を横目に「そんなの何とも思わない」と振舞う絢乃。駄目だ、やはりこの幼馴染の前では俺の力は通用しないと、わざと布団を深く被った。

「申し訳ありません……。はい。分かりました。またご連絡致しますので。失礼致します」
「どうだった?」
「珍しいね風邪だなんて、だそうだ」
「自業自得で風邪なんて言えないもんねー」
「本当にうるさいな」
 今日は一社、新刊の打ち合わせがあったのだが断りの電話を入れた。流石に家から出版社が近くても、この状態では到底仕事の話など出来やしない。しかし、熱はあるが昨日よりは大分と身体は軽くなったような気がする。気がするだけで実際の所は絢乃に全てを委ねている状態だが。

 絢乃が掃除機片手に、耀介に尋ねる。
「もうお昼なんだけど、まだそんなに食欲ないんじゃない? また雑炊作ろうか?」
「いや……ミネストローネが食いたい」
「は?」
「一応食材はある。だからミネストローネが食いたいんだ」
「分かったわよ。どうせお母さんのミネストローネが恋しくなったんでしょ?」
「そんなところだ」
 耀介から「食べたい」と要求されるのは初めてだったので、絢乃は面食らう。しかし、自分の想い人が望むのならば……と心なしか嬉しい気持ちになる。キッチンは「絢乃の空間」へと成りつつあった。

 今日は祝日。世間はきっとショッピングだ、春の陽気でハイキングだと賑やかなのだろう。しかし、耀介達のいる空間は穏やかに時間が流れている。耀介はベッドで、絢乃は耀介の自宅内で。熱はあれど、陽射しの暖かさは何故か心地良かった。

 夕方になり、絢乃が「じゃあそろそろ帰るね」と言った。一瞬淋しく感じたが、それは一人暮らしの長い耀介にとって「誰かがいる」という状況が珍しかったからだろうと言い聞かせる。
「済まなかったな。色々と面倒見て貰って」
「そういう場合は『ありがとう』って言葉の方が嬉しいんだけど?」
「……有難う」
 まるで子供が照れたように耀介が呟くと、絢乃が微笑みながら
「アンタって本当に……面倒見る甲斐があるわ」
 そう言って耀介を柔らかく抱き締めた。耀介は固まる。
 今、この状態は何だ? 俺は抱き締められているのか? 良く状況が飲み込めていない。ただ分かることは、絢乃が好んでつけているトワレの淡い香りが、耀介を包んでいる「事実」だ。
「子供みたいね、図体でかいけど」
 絢乃はそう言って耀介から身体を離した。
「まだ無理しちゃ駄目よ! あとミネストローネ、沢山作ってあるから、薬飲むためにちゃんと食べてよね!」

 玄関のドアが閉まる。
 まるで取り残されたかのように、耀介はただ玄関で立ち尽くすだけだった。


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