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【目印を見つけるノート】219. ミケランジェロとレオナルド、ラファエロの饗宴

今日はテーマで書きます。
ミケランジェロがらみで行ってみます。

この項の92で書いたことがあって、多少重複する部分があると思いますが、どうかご容赦ください。
【目印を見つけるノート】92. ミケランジェロの展覧会

彼の正しい名前はミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)です。

彼の名前を知っている人はたくさんいらっしゃると思います。
そうでなくとも、バチカン市国のシスティーナ礼拝堂にある天井画『天地創造』、そして祭壇の背後にそびえ立つような『最後の審判』を見たことがあるのではないでしょうか。

『天地創造』(1512年ーごくごく部分)バチカン・システィーナ礼拝堂……出典①

あるいはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に展示されている『ピエタ』(倒れたイエス・キリストを抱くマリアの像)、フィレンツェのウフィッツィ美術館所蔵の『ダヴィデ』像も有名です。『ダヴィデ』は教科書によく載っていますね。

『ピエタ』(1499年)バチカン・サンピエトロ大聖堂……出典②

それらの代表作でも分かる通り、彼は絵を描くし彫刻もします。もともと彼は彫刻から創作をスタートしたので、メインは彫刻ということになるでしょう。加えて建造物の設計も後年は手掛けています。

今日は代表作の辺りにはほぼ触れません。
「競作」がテーマです。


⚫ふたつの競作

ミケランジェロはルネッサンス期の芸術家の中では頑固だというイメージがあります。
それは巨大な『天地創造』を一人でコツコツ描き人間の限界を超えるほど首を上に向け続けたというエピソード、生涯独身を通したことなどが根拠になりそうです。

ですが同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチもラファエロ・サンティも独身だったと言われています。
ラファエロにマルガリータがいるお話は前にしました。

【目印を見つけるノート】179. ラファエロとマルガリータのラブストーリィ

ただミケランジェロの場合、家族、特に弟妹にいろいろと苦労があったようです。彼は一家の大黒柱で、家族を大事にしていたのです。ですので頑固というよりは人付き合いが苦手な人というだけだったのではないかと思います。

さて、ルネッサンスの3大巨匠を出しましたが、
ミケランジェロとレオナルド、ミケランジェロとラファエロが競作(共演?)していたことをご存じですか。ただし、レオナルドの方は完成ならず、ラファエロの方は競作の後押しになります。
それをご紹介しましょう。


⚫『アンギアーリ』×『カッシーナ』

まずはレオナルドとの競作(未完成)。
イタリア・フィレンツェのヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)がその舞台です。

シニョーリア広場に堂々とそびえるこの建物は宮殿として建てられ、かつて共和国だった頃は市庁舎でした。ここの本会議室といえる『五百人大広間』はふたりの競作した絵で飾られるはずでした。
レオナルド作の『アンギアーリの戦い』とミケランジェロ作の『カッシーナの戦い』です。
4年前にそれをテーマにした展覧会がありました。
https://www.museum.or.jp/report/646

フィレンツェが勝った戦いをテーマにした2大巨匠の競作は残念ながら、あいまみえることはありませんでした。

『アンギアーリの戦い』(レオナルド)は一応完成したのですが、絵具が画面に定着せず流れてしまい修正を余儀なくされます。レオナルドはこのとき、あまり使われていなかった油絵具で壁画を描いたのですが、それがいけなかったようです(この頃の壁画や天井画は絵具に漆喰を混ぜて使っていました)。それでも残存した部分は50年あまり存在しました。

しかし、フィレンツェがトスカーナ大公国になった1560年頃にこの宮殿は改装されます。この壁画が共和制を讃えるものだったからでしょうね、コジモさん(初代トスカーナ大公)。改装を命じられたジョルジォ・ヴァザーリの計らいで、壁画はどこかに行ってしまいました。現在は小さな模写しか残っていません。

ルーベンスらによる『アンギアーリの戦い』模写(16世紀ー部分)パリ・ルーブル美術館……出典①

といいましたが、ヴァザーリはミケランジェロの弟子だったこともありますので、壊したりはできない……。

『アンギアーリの戦い』が現存するヴァザーリの壁画の後ろに隠れているーーというのは近年たびたび指摘されて、美術史ミステリーになっています。今やヴァザーリの壁画も貴重な遺産ですので、バリバリと壊せません。でもいつかは見られると、私は期待しています。

一方、ミケランジェロの『カッシーナの戦い』はさらに悲しいことになりました。彼は完璧な下絵を描いて、さて取りかかろうとしたときに急遽、ローマ教皇ユリウス2世からお呼びがかかります。自身の教皇廟の設計と彫刻の依頼です。それはむげにできません。壁画制作はいったん中断します。

ミケランジェロの習作(1504年頃ー部分)フィレンツェ・ウフィッツィ美術館……出典①

そして、中断したままになりました。下絵は他の人が破棄してしまいました。
何てことをするのでしょう。
残念です。

サンガッロによる『ミケランジェロ「カッシーナの戦い」カルトンの模写』(1542年頃ー部分)ノーフォーク・ホルカムホール……出典①

ミケランジェロとレオナルドが仲良しだったという記録はないようです。ならば険悪だったのかというと、それは皮相な見方でしょう。お互いが心の中で才能の素晴らしさを激賞していたと思いますし、それが新たな創造への刺激にもなっていたでしょう。

このふたつの壁画が完全な形で完成していて、今も『五百人大広間』で見られたら、どんなにすごいだろうと想像します。
ここで世界中の芸術家が集まって、会議をしたらどうなるでしょう。17世紀ならルーベンスもレンブラントも絶対いそいそと来ますね。ウェストファリア会議でなくて、『五百人広間』ミーティング。
楽しい、感動しちゃう😂
失礼しました。

⚫『ラザロ』×『キリスト』

次はミケランジェロ×ラファエロの密かな競作を紹介しましょう。

こちらの2点はもともと、教皇クレメンス7世(当時は枢機卿)の依頼でローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会(San Pietro in Montorio)ボルゲリーニ礼拝堂のために描かれたものです。

ひとつはこちらです。
『ラザロの蘇生』(セバスティアーノ・デル・ピオンボ)は
簡潔で丁寧な解説がありました。

「え、ミケランジェロではないけど」とおっしゃるかもしれません。
ピオンボはローマの気鋭の画家でミケランジェロと懇意にしていました。
宗教画の配置には決まりごとがありますので、『ラザロの蘇生』についてもミケランジェロに相談し、巨匠はその下絵を描いたと言われています。構図で人物に劇的なメリハリを付ける点などはミケランジェロの発想です。

一方、ラファエロの『キリストの変容』です。これはラファエロの最後の絵でもあります。ローマで大きな工房を抱え、後年は着色までしていなかったラファエロが一人で完成させた絵だといわれています。その創作意欲は凄みすら感じられるもので、病床でも描いていたと伝えられます。
こちらの絵は現在、ヴァチカン美術館に所蔵展示されています。

『キリストの変容』(1516~20年ー部分)ヴァチカン絵画館……出典②

ミケランジェロとラファエロが仲良しだったという記録もありませんが(苦笑)、ふたりともこの絵に賭ける情熱は半端なものではなかったと思います。
ミケランジェロは他者の下絵を描くことはほとんどなかった。ラファエロと競いあいたかったから、あるいはラファエロの体調がよくないことを知っていたから、この仕事に関わったのかもしれません。

ラファエロもこれが最後になるだろうと分かっていたでしょう。そして、ピオンボとミケランジェロの作品と一緒に飾られるこの絵を、生命の力を振り絞って描くのにふさわしい仕事だと考えたと想像します。


⚫あとがき

少し私見も含めて書きましたが、最も雄弁なのは彼らの作品だと私は考えています。

絵の解釈もたいへん重要なのですが、創り手も懸命に生きて活動を続けた「ひとりの人間」なのです。一筆、一彫りにその人の人生が重なっている。そして、稀有な才能同士、人間同士がぶつかって、お互いに影響を与えあった。

そう思うと、より作品を楽しく、深く観賞できるのではないでしょうか。

※出典は手持ちの本から写真を撮りました。商用目的ではなく、紹介のための引用です。目的に鑑みて部分のみ、画像も粗くしています。ゆがみも出ています。
ご了承ください。

出典① 『もっと知りたい ミケランジェロ 生涯と作品』池上英洋著 東京美術
出典② 『ヴァチカン物語』塩野七生、石鍋真澄ほか著 新潮社

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