こんなファシリテーターはやりたくない(今後に向けてのメモ書き)
昨日のnoteで、ワークショップや対話のファシリテーターをすごくやりたい、継続してやりたい、という話を書いた。せっかくなので、もう少し掘り下げてみる。
まずパッと浮かんだ、「やりたい」・「やりたくない」ファシリテーターのイメージはこんな感じ。
<こんな対話のファシリテーターはやりたくない>
結論が最初から決まっている。(もはやそれは対話ではない)
一方が一方を説得するための場として設定されている。
「話しました感」「みんなの意見を聞きました感」を演出するための場。
みんなやらされ感を感じながら参加している。
つまらない。
<こんな対話のファシリテーターをしたい>
理解できていなかった参加者間の相互理解が深まっている。
気づきを、自分自身の言葉で表現できている。
一人一人がそこにいる意味を感じながら参加できている。
話したくないことは話さなくて良い。
楽しい。
ファシリテーター業に限らず、自分が興味あるのは、一人ひとりの本音が現れ、お互いを相互理解できることなんだろう。
対話の場の目的設定が「合意形成」に置かれていることもあると思うが、あまりそこに比重を置きすぎた場は得意ではない。(必要がないとまでは言わないし、良い感じに合意形成ができることもある)
ただ、自分がやるとしたら、合意形成よりも、「違いをお互いに理解する」くらいの場を任せてもらえるとありがたいかも。
「みなさんの意見を(一応)聞きましたよー」という体裁をとるためのつまらないワークショップや対話の場が世の中には多い。
福島にはワークショップや対話の場が嫌いな人、うさんくさいと思っている人が多い印象があるが、結論ありきのつまらないワークショップが震災後にたくさん開催されているからじゃないだろうか。(別に特定の団体を指しているわけではないけど)
結論ありきだったり、対話の「やった感」を出すアリバイ作りのワークショップはとっても微妙。
しかし、そのような微妙な対話の場と、おもしろい対話の場の違いは、パット見には分かりにくい。募集チラシや募集サイトも見ても分かりにくい。うっかりすると、自分もつまらない場作りの片棒を担いでしまったりする。
とってもおもしろいワークショップや対話の場に参加した後の気持ちは、思い出に残る最高のカラオケに行ったときみたいな気持ちに近いかもしれない。
聞きたくない曲を聞かされることもなく、歌いたくない曲を歌わされるでもなく、みんながみんな、歌いたい曲を、歌いたいように歌い、1曲も歌わない人も、それはそれで楽しい。「なんかすごい楽しかったねー、また行きたいねー」となる。
そういう場のファシリテーターをしたい。のかもしれない。
あんまりこだわるが強すぎるのもどうかなという気持ちもありつつ、「こういう場作りしか僕はやれませんし、やりませんよー」と明確にしちゃった方がお互いのために良いだろうし、楽そうだな、やりやすいな、持続できるだろうなと、今日は思った。
「なんでもファシリテートできますよ」みたいな感じだと、苦しくなったり、つまらない場作りの片棒を担ぐリスクが高まる。なんでもできる人のふりをしないように気をつけよう。
今日はそんな感じ。そのうち、noteに募集記事でもあげよう。
podcastでも少し話しました。
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