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京都について その1:わたしたちはつねに泳ぎ去る

八年間の京都での暮らしを終え、早くも一ヶ月半が経った。

私の言う京都とは、単なる一都市の名以上の意味を持ってしまっている。
だいたい、十八歳から二十五歳を終えるまでのまるまるを、故郷を遠く離れて一人暮らしをした街なんて、その思い出がよっぽどひどいものでもないかぎり、特別な場所になるに決まっている。
そもそも京都だ。そこで学生生活を過ごした者のいくらかは足を取られて脱出できなくなり、なんとか離れた者でもその多くは、生涯に渡り、取り憑かれたように懐かしむという地。

帰郷を決断した理由も、逆に学生生活を終えても京都暮らしを引き伸ばしていた理由も、簡単に説明できるものではない。
ここ数年の家庭の状況を知る人からは、北海道へ戻らないことを親不孝だと言われていたしても当然だとすら思う。それでも京都が好きだから住んでいたし、それ以上に、私が京都にいることは私にとって自然だった。

京都市内の着物絵師の家に生まれ、四条河原町の交差点にかつてあった書店に勤めていた祖母が、名も知らぬ北の港町に嫁ぐことを決めたとき、きっと祖母も、その理由を一言では説明できなかったのではないかと思う。

常々書いたり話したりしている通り、私の祖母は京都生まれで、祖父はその京女を北海道へ迎えて娶るほど京都が好きな男だった。
それゆえ私は子供の頃から、墓参りや親戚との面会など様々に理由をつけて京都へ連れられてきていた。もっとも幼い自分には、寺社仏閣もお墓もうどんすきもつまらなく、ついでに寄った大阪でお好み焼き屋へ行く方がずっと楽しかった。

私の知る祖母は、その出自(あと、当時を知るはずの誰からも特に同意は得られていないが、その街で「美人」として知られたこと……)を生涯誇りにした。そして、自ら望んだ恋愛結婚の末に骨を埋めることになった田舎町を、「文化果つるところ」と鼻で笑ってはばからなかった。
しかも矛盾することに、そういうときの口調は、浜言葉というべき癖のある北海道弁であり、京都的な態度からはかけ離れていた。祖母の二面性というか、京都風と北海道風を兼ね備える在り方?は、孫としても、京都を経験した道産子としても、今なお新鮮に面白い。
それと同時に、その尋常ならざる量で死後に家族をうんざりさせた服のコレクションは、「京の着倒れ」を体現するようでもあった。おかげで私は今でも、祖母から受け継いだ洋服を日常的に着ている。
運命のいたずらによって、京都を愛する道産子大学生に出会うことがなければ、きっと祖母は生粋の京都人としての一生を終えたのだろう。
その恋愛は、封建的な家庭と社会にストレスを感じる若い京女にとって、そこを抜け出す偶然のチャンスだったのだと、道産子大学生であったところの祖父は私に説いた。

しかし、結局結婚相手は京都好きである。故郷と縁が切れるわけではない。祖母は結婚当初も京都に里帰りして出産し、お盆は子どもたちを連れて帰洛した。家業を次の世代に譲る頃には、祖父母は年に二、三回も京都に行っていた。「またおじいちゃんおばあちゃんたち京都行ってんの!? 何しに!?」というのは、私達家族にはあるあるな会話だったのだ。

帰洛のみならず、毎年何度も海外旅行にも行き、はたから見れば恵まれた奥様だった祖母にも、様々なストレスや葛藤があったのだろうか。あるときを境に祖母は非常に怒りっぽくなり、結婚したことを含め、自分の周囲と運命を罵りまくっているうちに、多くのことを忘れていったのだった。

祖父は認知症となった祖母を自宅で介護するだけでなく、できるだけ長く、何度も、京都へ連れて行き、兄弟たちと会う機会を設けた。
滞在先のホテルで徘徊したことも、公共の女子トイレから出てこられなくなったことも一度ならずあるらしい。家族に言えないほど人様へ迷惑をかけたこともあったのではないかと思う。
私が大学進学で京都に住み始めた頃には、近距離の外出も難しくなってしまっていた。帰省の折には、特養に暮らすようになった祖母を訪ねて、下鴨神社のみたらし祭りに行って足を濡らしたこと、北山の植物園を散歩したこと、バスに乗って足を伸ばし、大原へ行ったことを話した。京都での私の生活が、ほとんど眠って生きる祖母の夢であればよいと思っていた。

まだ祖母が自宅にいた頃の年末の家族の集まりでのこと。入れ歯も使えなくなっていた祖母のために、誰かが柔らかい卵焼きを取り分けていた。
祖母はそれを食べようとはせず、指で直接なでて、きれいやね、きれいやね、と何度もつぶやいた。高校生だった自分は、まるで童女に戻ったような祖母と相対するのがつらかった。けれども今の自分は、その状況に対してまた違う感慨を抱く。
取り皿に一切れ載せられた卵焼きは、確かに美しい。それに気づく者がいたとして、しかし指先でなでてまでその美を味わうことができるだろうか。それは、そのものが一見担っている――ここでは食物という――役割を度外視して、そのものの美しさのみを尊ぶことだ。
矛盾と葛藤に生きたようにみえる女が、多くのことを忘れた最後、結晶のように残ったのは、美しきを愛でる心だったのだと私は書きたい。
それは、美しい都の、美しい布を描き出す職人のもとに生まれ、美しい容姿と装いを誇って生きてきた人間にふさわしい老境だと思うからだ。

おそらく結婚前に祖父が撮った祖母。京都の桜だと思う。

(つづく、予定)


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