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京都について その2:私たちはつねに泳ぎ去る

すっかり弱った体で祖父は、春には京都に行く、そのためにリハビリを頑張るんだと繰り返した。それがこの前の年末年始の頃のこと。
この京都好きが、しかし妻となる京女と出会う前から京都好きだったのかは、今はもう確かめることができない。

遡ること七十年ほど前、祖父と祖母はそれぞれ、北海道と京都の商業高校生だった。
当時あったという、各地の商業高校をつなぐ文通のネットワークを通じて、祖父は京都のとある女子生徒とペンフレンドになった。やりとりを重ねる数年間の間に、札幌の高校から東京の大学に進学した彼は、上野から汽車に乗ってその女の子に会いに行くことにする。どんなに緊張したことだろう。

けれど、その日の待ち合わせ場所に現れたのは、文通をしていた女子生徒ではなく、その友達だった。文通相手本人は用事があって来られなくなり、代理を頼まれたらしい。本人であった方は、本当に急用があったのか、それとも怖くなってしまったのか。代理にされた方も代理で、知り合いでもない得体の知れない男と突然会うことを引き受けるなんて、やっぱり変わり者だったのだと思う。
その日二人は、嵐山へ出かけることにした。渡月橋を渡り、川べりに腰掛け、代理の彼女は「お昼時ですね」と、買っておいた稲荷寿司を取り出す。京都の町の食堂の軒先に、今でもよく売っているあれだ。遠路はるばる来た貧乏学生は、その気遣いに大層感動したらしい。もともと文通をしていた方とはどうなったのか、ともかく二人はそれをきっかけに仲を深めることになった。
もう代理ではなくなった彼女は、高校を卒業してから書店員として働いていた。美しい字を書く人で、その点、遠距離恋愛に向いていたのかもしれない。貧乏学生は、普段はアメ横で買ったデニムを自慢気に履き、和菓子屋の配達のバイトをして生活費を稼いだ。それだけでは京都へ会いに行く旅費までを賄えず、ともに下宿する姉に借金をすることもあったと、いまだ健在である姉本人は語った。

2022年の秋、下鴨の古いアパートに住み始めた私の様子を見に来てくれた祖父と、百万遍から一乗寺までの長い散歩をした。一乗寺のラーメン街を歩きながら、六十年前は段々畑しかなかったのになあ、と驚いていた。その印象が強すぎて、またこの辺りに来ようとなかなか思わなかったらしい。
一乗寺の代名詞ともいえる書店、恵文社に連れていくと、案の定たいそう喜び、時間を使っていた。いい店を知った、これまでもったいないことをした、次来るときは必ず来る、と言うので、おじいちゃんは京都が好きだというくせに守備範囲が狭いんだよ、と私はケチをつけた。

懐かしいところに行きたい、とリクエストを受けて、北白川を越えて坂を上がり、詩仙堂にも立ち寄った。祖父は、二階も見られるはずだ、というが、階段が見当たらない。受付に尋ねると、「三十年くらい前までは二階もあけていました」と言う。前に来たのがいつだか知らないが、少なくとも三十年以上前の寺の作りを覚えている祖父のことも、三十代以下に見えるのに当時のことを淡々と話せる受付の人の把握力も、なんだかおかしく、古都っぽくて、私は結構笑った。

そのときの祖父は、以前より痩せてはいたけれど、腰も曲がらず、八十代になってなお愛するデニムを履いて、なんだかんだ歩いていたのだ。京都を知る人なら、百万遍から修学院の手前あたりまでの距離と高低差を分かってくれるだろう。そんな日の帰りに、河原町のビアホール・ミュンヘンに寄って、ふつうにビールを四リットルくらい飲んで、ふつうに市バスに乗って、駅前のホテルまでちゃんと帰れていた。

ただ、詩仙堂の庭を歩くのは嫌がった。足を滑らせそうだと言う。同じ理由で、高野川にかかる飛び石も嫌がった。目も悪くなっていたんだろう。ゆっくり行けば大丈夫だよ、と先んじた私に、おじいちゃんには無理だ、と後ろで苦笑いした顔が忘れられない。それから私たちは大回りして、きちんと北大路橋を渡った。

京都好きの、最後の京都だった。そのとき彼が、やはり京都好きの孫と食べた昼ごはんは、進々堂本店のカレーパンセットだったことを記録しておく。

京都の写真か確証がないけれど、川だ

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