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森林の大木は音を立てたか。目の前の木の葉になる。

久しぶりの投稿です。一時期はこのnote、かれこれ100日ほど継続していましたが、なんか不思議な気持ちです。今日は世の中「認知があってこそ」だっていうことをお伝えしたいなと。それでは、

誰もいない森林の大木であっても仕方がない。こんな話をします。

「大きな木があります。それは誰もいない森林の奥にあります。ある日この大きな木が倒れました。この大きな木は音を立てましたか?」

大きな木が倒れるので、きっと大きな音がするでしょう。もし斜面の途中にあるのだとしたら凄まじい轟音が鳴り響くのではないでしょうか。そう考えると、この木は音を立てています。「木が倒れているんだから音はするに決まっているじゃないか」。その通りです。

では別の考え方をしてみましょう。この木の倒れる音をあなたは聞きましたか。きっと答えは「いいえ」ではないでしょうか。それなのにどうして音を立てたとあなたは答えたのでしょうか。「だから、木が倒れたら音がするのは当たり前だ」。、、、このままでは平行線ですね。音を認知に置き換えて考えてみましょう。

この木の音はあなたに届かなかった。どれだけ大きな音を立てていたとしても誰にも認知されなかった。つまり、この木の音やその表現は誰にも認識をされていないのです。誰にも認識されないということは、「無」なんです。音はしていたかもしれないけど、誰にも届いていない。これは人でも当てはなる、こう考えると、おそろしくないですか。大声を出しても認識されないという状況。

If a tree falls in a forest and nobody's around to hear it, does it make a sound?

これを自分に当てはめて考えてみました。毎日投稿していたころ、確かに音を出して、存在感を示して、示そうとしていたのかもしれない。しかし、これが誰にも届いていなかったら「無」に等しいんですよね。文章を書く行為に満足している状態なのかもしれません。いわゆる、独りよがりなんですかね。(幸いなことにたくさんの方に見て頂けていたので良かった)

続けていれば、そこに人が集まってくる、そしてどんどん認知されていく。このような流れもあると思います。

ただ、有名人や知名度を持ち合わせているわけではない自分が、多くの人に届けようとしたら、その人たちの近くで音を鳴らすことが大事になってくると思います。

相手がいて、相手が認知してこその表現なのかなと。森林の大木ではなく、すぐ目の前を落ちる木の葉でありたいですね。


Does it make sense?
それではまた。お読みいただきありがとうございました。

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