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【短編小説】毒と薬


「マジで嫌なんだよなー」

 隣にいる友達が眠そうに目をこすりながら、ため息交じりに言った。周りにいる皆もそれに同調して「なんで母親なんだよ」「見られたくないんだけどな」と口々に愚痴を垂れている。
 今日は三者面談だ。この学校は新年度になった春と、進路を決める冬に二回ほど三者面談を行う。三者面談では自分の成績や内申点、志望校に合格する見込みがあるのかなどの情報を教師から聞ける貴重な機会だ。しかし、男子生徒たちにとっては親と一緒に先生と話すという恥ずかしい日でもある。特に三者面談に来るのは母親だと決められているため、思春期まっさかりの男たちにとってはこの上なく恥ずかしい。
 放課後が近づくにつれて、思春期たちの頭には靄がかかり、胸には熱い羞恥心が溢れていく。それを紛らわすかのように愚痴を言い合い、ため息を漏らす。女子生徒はそんな男子生徒を見ては「かっこ悪い」「ダサい」と言い捨て、笑うのだ。
 目崎郁人はそんな友達たちを見て、不思議な気持ちになっていた。なぜ、母と話すのが恥ずかしいのだろう。女性だからだろうか。しかし、幼い頃からずっと一緒にいて接している母を恥ずかしがるというのはわからない。

「俺の母親マジでずっとダイエットしててさ。その割にはお菓子とか食べてるんだよ。意味わからなくてさ。勘弁してほしいよね」

 一人がそんなことを言うと、皆が笑った。そこから話は「女性はどのくらいの体重が一番いいのか」という不毛な議論に変わり、目崎はなんとなく会話に入っているふりをして相槌を打った。こうすることで、興味のあるふりができて誰にも嫌われることが無い。

「痩せてる子よりちょっと肉付きのいい子の方が良いよな。なあ、目崎」

 友達がそう言った瞬間、皆から笑顔が無くなった。驚いたように目崎を見て、反応を伺っている。「おい、やめろよ」と誰かが友達の発言を注意しているのが聞こえた。

「でもさ、目崎のお母さん美人でいいよな。モデルさんとかやってたの?」
「いや、別に。普通の学生だったとしか聞いてないかな」

 友達たちはそれを皮切りに、一斉に母を褒めだした。若く見える、皺が無い、スタイルがいいなどと、母の事なんて知らなくても言えそうな言葉を郁人の顔を見て話す。
 皆がなぜこんなにも気を遣うのか郁人はわからなかった。確かに母は年齢よりも綺麗だとよく言われている。どちらかと言えば痩せている方だし、顔をまじまじと見ることはないが、皺もないような気がする。
 だからといって、郁人に言われても困る。そんな事は母に直接言えばいい。しかし、皆、昔から母に会うと蛇に睨まれた蛙のように固まって動かなくなってしまうのだ。

「伝えておくよ」

 そう言うと、皆はやはり困ったような顔をした。一体何だというのだろう。別に悪口じゃないのだからいいではないか。
 皆が昨日やっていたバラエティ番組に話題を変えた頃、チャイムが鳴った。帰りのホームルームが始まる。あと数十分後には三者面談が始まり、友達たちは嫌でも母と先生と話さなければならないわけだ。先生がやってきて、話し始めるまで、郁人はずっと何がそんなに嫌なのか考えてもわからなかった。


 学校が西日に照らされてきた頃、出席番号順に三者面談が始まった。ホームルームの前に騒いでいた友達たちはあからさまに元気を失くし、警察に捕まった犯人のように観念して母親と一緒に先生の待つ教室へと連行されていく。

「俺、この前のテスト成績悪かったんだよなぁ。何言われるかわからねーよ」

 友達がため息をつきながら言った。野球部の彼は大学には推薦で行くと決めているらしく、勉強は全く手を付けていないらしい。勉強よりもどうやって夏の大会で成績を残すかという事しか考えていない。だからテストの点数はいつも悪く、いつもテストの後にはため息をついている。
 
「三者面談なんかしてる暇あったら俺は素振りでもしたいんだけどな。あーめんどくせー。何言われるんだろう。俺の親さ、典型的なおばちゃんって感じで恥ずかしいんだよな。この前とかご飯食べに行ったら店員にタメ口使ったんだよ。意味わかんなくね?友達じゃねーだろって注意したからね。マジで担任にもタメ口使いそうで怖いわ」

 そんな彼も時間が来たら大人しく教室へ向かって行った。教室に一人残された郁人は何もすることが無く一人で窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。
 三年生になると急に進路について考えなくてはいけなくなるのが郁人は苦手だった。やりたいことなどない。特技もない。彼のように野球ができるわけでもなければ、女子生徒たちのように美容やファッションなどにも興味がない。学力はある。それだけだ。

 そろそろ行くか。

 郁人は三者面談をする教室へと向かった。足が重い。体全体が教室へ向かうことを拒否している。なんとなく空気も重く感じて、息も荒くなってくる。階段を降り、一階に着いた頃には、粘りつくような空気が郁人にまとわりつき、深呼吸をしてもなかなか空気が肺に入ってこなくなっていた。友達たちを不思議に思っていた郁人も、もれなく緊張をしているのだ。

「あら、郁人遅いじゃない」

 階段を降りて、右に曲がると、既に母が待っていた。いつも以上にオシャレをしてしっかりと化粧を施し、髪を整え、上品な顔をしている。声も外だから小さく控えめに出しているようだった。

「ごめんなさい」
「別にいいけど。それよりも私を見て何かないの?いつもよりオシャレしてるのに」
「あ、綺麗ですね」
「全く。そんなだといつまで経っても彼女なんかできないわよ。些細な事にも気付いてあげて褒めないと」
「はい」
「それにね、もうちょっと明るくはきはきと話さないと。そんな感じだと彼女どころか、男の子の友達もできないわよ。暗い子がいきなり手を引っ張ってもらって主役になっちゃうなんて漫画か映画で見るようなことは起きないんだからね」
「わかってます」
「やっぱり自分から行動しないと。あなたは顔は良いんだから、積極的に話せば誰だって仲良くしてくれるんだから頑張りなさいよ」
「はい」

 気が済んだのか母は持ってきていた水を飲んで一息ついた。この後の三者面談ではこれよりももっと言われるのだろうと思うと気が滅入ってしまう。成績は悪くはないが、母の事だ。何かしらの欠点を見つけて指摘してくるに違いない。
 話すことが無く、二人でぼんやりしていると、教室からクラスメイトとその母親が出てきた。母はその二人に向かって軽く会釈すると「失礼します」と勢いよく教室に入っていく。郁人はその母の後ろを逮捕された犯人のように着いて行く。
 その姿を見て担任は笑うことなく「よろしくお願いします」と頭を下げた。今年二十代後半だという担任の木崎は少し緊張しているように見えた。母が真顔で見ているのだから当然といえば当然だ。

「よろしくお願いします。郁人の母の目崎弥生です。息子がいつもお世話になっています」
「よろしくお願いします。担任の木崎です」

 二人は互いに頭を下げ合い、少し席に座った。

「三年生ということで、進路などの確認をしていきたいのですが、目崎君は大学進学で大丈夫だよね」

 木崎はこちらを向いて笑った。いつものように優しい笑顔で郁人が話し始めるのをしっかり待ってくれている。

「そうです。郁人は大学に行かせるつもりです。成績もそこまで悪くないので少しでも名門大学に行かせたいんです。大丈夫ですかね」

 母はそんな郁人を待つことなく早口で質問した。そんな母を見て木崎は少し残念そうに母に視線を移し、何やら書類を取り出し、母に差し出した。

「そうですね。これは全開の学力テストの結果ですけど、目崎君は学年でも優秀な成績なのでいい大学には行けると思いますよ。と言ってもまだ春なのでここからの頑張り次第ですが」
「まあまあですね。親としてはもうちょっと良い結果が良かったですが、悪くはないですね」
「ちなみに、目崎君はどの大学を目指してるの?」
「郁人は一応、東大を目指しているんです。学力的にも難しい所じゃないと思いますし、これから塾にでも通わせれば十分狙えるかなと」
「そうなんですね。私も全然狙えると思いますよ。目崎君は東大で何を学びたいの?」
「それはまだ決めてないと思うんです。まだ春ですし。これから決めたらいいのかなとは思いますね」
「そうなんですね。目崎君に聞きたいんだけど、将来の夢とか無いの?」

 木崎があからさまな作り笑顔でこちらを向いた。母も厳しい目でこちらを見ている。二人とも表情は対照的だけれど、「何か話せ」と心の中では思っているに違いない。それでも郁人は何も言えなかった。将来の夢なんて考えたことが無い。小学生の頃はなんとなく俳優やスポーツ選手などと答えていたけれど、そんな夢は年齢が上がるにつれて消えていった。今となっては何に対しても自分には才能はないという現実を突きつけられていて、野球選手になりたいと口に出している友達を眩しく感じているだけだ。

「郁人は大企業に入って結婚して幸せになりたいって言ってたわよね」

 何も言わない郁人を見かねて母が口を出した。そんな事を言った記憶はないが、特に将来の夢などないから何でもいい。頷いて木崎の方を見ると、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
 それから母と木崎は何やら雑談をして、郁人はそれをずっと聞いているばかりだった。話しは特に面白いわけでもなく、二人も笑いはせずに数分話すと、満足したのか三者面談は終わりを迎えた。


「あの担任の先生はちょっと嫌だったわね」

 帰宅して、部屋着に着替えた母は料理を作りながら、愚痴をこぼした。三者面談の時はあんなに楽しそうに話していたというのに、何が不愉快だったのだろう。担任は何も気に障るようなことを言っていなかった。強いて言えば、郁人が話さないから嫌な顔をしていたことくらいだ。

「あの人、普段の授業とか大丈夫なの?若そうだし、そこそこ愛嬌のある顔してるからちやほやされてそうで不安だわ」

 カレーの強い匂いがこちらまで漂ってくる。具材を混ぜながら愚痴を吐く姿は魔女のようだ。母の愚痴がたっぷりと混ざった愚痴入りカレー。不味そう。

「別に普通。良い人」
「本当に?男にだけ良い顔して女にはきつく当たりそうな顔してたじゃない。今日だってやたらと郁人を見て笑ってたし。あんなふうに男を懐柔してきたのよ。私は同じ女だからわかるわ。ああいう女はたくさんいるのよ。気をつけなさい」

 愚痴のたっぷり入ったカレーが出来上がっても、母の愚痴は全く止まらなかった。担任の話しから友達の話しに変わり、最後には郁人の性格の話しに変わる。いつものパターンだ。
 そして、それから話しは不倫をして別れた父の愚痴に変わり「あなたはそうならないでね」と郁人をじっと見つめてくる。こんな鬱々とした会話をもう何年も聞かされている。嫌だと思った事はない。母は父に不倫をされて離婚した可哀想な人なのだ。友達と出かけるなんてことも滅多にないから友達もほとんどいないのだろう。だから母の愚痴を聞いてあげるのも息子の役割というものだ。

「あなたのためなのよ。だから私の言う事くらいちゃんと聞いてちょうだいね」

 母は最後にこう言うと、それからは何も言わずにご飯を食べ、郁人の分の食器も一緒に片付けた。食後、自室で勉強をしていると、母が電話で誰かと話しているのが聞こえた。郁人は聞こえないようにイヤホンをして今日の事を忘れるように勉強にのめり込んだ。

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 三者面談の翌日、一時限目が始まる前、郁人は職員室に呼ばれた。悪い事も良い事もしていないので、呼ばれる理由は全く分からなかったが、職員室の隣の応接室に連れられると、理由はすぐにわかった。そこには休みだと聞いていた担任と母が対峙していたからだ。母からは怒っている様子は見られない。ただ、担任の先生は明らかに疲弊しており、ずっと俯いている。傍らにいる校長は頼りなさそうに立っているだけだ。

「目崎君。こちらへ」

 そう言ったのは、学年主任でもある体育教師だった。いつものようにラフなジャージ姿ではなく、きっちりとしたスーツを身に付けた彼も、少し難しそうな顔をしている。

「突然で申し訳ないんだけど、目崎君は木崎先生には何かされたとかある?例えば、食事に誘われたとか、学校外で会うように約束されたとか、恋愛感情を持たれたようなことはないか?」
「いいえ。ありません」
「そうか。わかった」

 体育教師は微笑み、顔を母に向けた。

「そう言っています。木崎先生は目崎君には何もしていません。ご理解ください。彼女は一生懸命指導しているだけです」
「郁人は人の事を悪く言えないんです。だからたとえ何かをされていたとしてもここでは言いません。息子なのでそれくらいはわかります。こんな所に連れてきて質問をしても意味はありません」
「では、どうすればいいんですか。これ以上できることはないですよ」
「この先生を違う学校へ異動させてください。私は彼女が息子に色目を使うのを見ました。あの目は確実に恋愛対象として見ている目です。同じ女性の私にはわかります」
「そんな事を言われましても…私共にはそんな権限はありませんし、急に言われても対応できませんよ」

 校長はやっと口を開いたかと思ったら弱い震えた声だった。郁人でもわかるくらい明らかに母を怖がっており、どうにか母を落ち着かせようと必死だ。
 しかし、母はその校長の弱い態度が気に食わなかったらしく、体育教師を見ている時よりもさらに鋭い目を校長に向けた。

「どうにかしてください。あなたは校長先生でしょ。学校の一番偉い人がそんなのでどうするんですか。まさか、この先生と関係を持ってるとかじゃないですよね。もし、そうだとしたら大問題ですよ。どうなんですか?」
「いえ、全くそんなことはありません。安心してください」
「とりあえず、木崎先生が異動するかどうかは本人の意志や教育委員会との話し合いもしないといけないので、今日の所はお引き取り願います」
「わかりました。進展ありましたら連絡くださいね。いつになりますか」
「いつというのはちょっとわからないですけど…」
「わからないってなんですか?そうやって逃げるつもりですか?決めてください。今」
「では、今月中には」
「わかりました。待ってます」

 母は郁人には目もくれずヒールをこつこつと鳴らして帰って行った。応接室にはどんよりとした空気が流れ、全員がぐったりしている。郁人は戻っていいのか言い出せずただ突っ立っていた。

「目崎君。来てもらってありがとう。あ、もう一度だけ聞くけど、本当に二人は何もないよね。正直に言ってね」
「無いです」
「あるわけないじゃないですか!私はちゃんとやってます!規則違反は一切してません!」
「わかってるわかってる。木崎先生が真面目にやってるのはわかってるから。落ち着いて。目崎君ごめんね」
「はい。大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、戻っていいよ」

 応接室を追い出され、郁人はため息をついた。先生は何も悪い事をしていない。昨日の三者面談はいつもより笑顔が多く、優しい口調だった。だから母も饒舌に話していたし、成績が良かったこともあって上機嫌だったはずだ。
 母がこんなに怒ってしまった原因をあげるなら、郁人の態度だろう。母の前で縮こまり、返答ができなかったから、先生は郁人に話しを聞こうとこちらを向いて話しかけてきていた。それが母の目には「色目を使っている女教師」に映ったのかもしれない。昨日の「ちょっと嫌だった」という発言から先生を良く思っていないのはわかっていたが、まさか、学校にまで来るとは思わなかった。

「大変だったね」

 教室まで歩いている途中、数学の担当である野村と出会った。今日も綺麗に磨かれた眼鏡を光らせている。

「いえ、大丈夫です」
「とにかく君は勉強に集中しなさい。せっかくいい大学に行ける可能性があるんだから、こんなことで集中力を落としてはいけないよ」
「はい。大丈夫です」
「そうか。それなら心配ないな」

 教室が近づいてきて、郁人は先生と一緒に教室に入るのがなんだか恥ずかしくて少し早歩きをした。教室のドアを勢いよく空けると、静まり返ったクラスメイト達が一斉にこちらを凝視する。それからさざ波のようにひそひそ話が聞こえてきた。

「目崎先生!プリント忘れました!」

 友達の一人が手をあげ立ち上がりケラケラと笑う。しかし、その後ろにいる教師の姿を見てすぐに俯いて座り縮こまった。

「江田。聞こえなかったからもう一回言ってくれ」

 教室中に笑い声が広がる。クラスメイト達は皆優しい。ここにいる時だけ全ての事が忘れられる。

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 母が塾に通うように言ってきたのが、五月に入ってすぐの事だった。ニュースでは連日ゴールデンウィークの話題で持ちきりで、行楽日和だと嬉しそうにアナウンサーが話していても、関係がない。母は仕事で、郁人は誰とも遊べずに勉強をするだけだ。
 担任の木崎はあの日以降休み続けている。臨時で担任になった先生によると、体調不良という理由らしいが、原因はおそらく母だろう。もしかしたら、卒業するまで、もう学校には来ないのかもしれないと郁人は思った。
 他のクラスメイトたちも突然の事で驚いているようだった。若く愛嬌のある顔立ちをしていて、真面目に教師をやっていた木崎を慕っている人も多かったようで、露骨に残念そうにうなだれている友達も多かった。
 事情をなんとなく察している友達たちは郁人を露骨に避けるようになった。関わることで、何か自分に被害が出るのではないかと考えているのだろう。特に三年生となった今、受験でピリつく人も多い。変なことに巻き込まれたくはないのだ。だから、ゴールデンウィークだろうが郁人と遊ぶ人などいるわけがなかった。
 それでも郁人は満足だった。先生のように学校に来なくなってしまう人がいる方が嫌だったからだ。郁人は避けられるようになったものの、虐められているわけでも無視されているわけでもない。こちらから話しかければ返してはくれるし、郁人が話さなくてもクラスは良い雰囲気で笑いが絶えない。それだけでよかった。
 それに通い始めた塾では新しい二人ほど友達ができた。吉野と今村といういかにも育ちが良さそうな利発的で積極的な男の子だ。二人と話していると楽しいし、勉強もできるから刺激にもなる。郁人は塾に通い始めてから、この二人と会うのが楽しくなっていた。

「目崎君はどの大学に行くの?」

 ある日の休憩時間、今村君が携帯を見ながら言った。郁人は母が何を言っていたか思い出しながら「東大だよ」と言った。二人は特に驚くことも無く「まあ、頭良いもんね」と言うと、また興味なさそうに携帯の画面をスクロールしていた。

「何になりたいとかあるの?」
「うーん…確か、いい大学に行って大手企業に勤めて結婚っていう流れ」
「確かって何?」

 二人は笑いながらも携帯を見ている。郁人は二人のつむじに向かって「母親がそう言ったから」と答えた。

「え?お母さんが言ったからなの?」

 やっと顔を上げた二人は郁人の顔をまじまじと見つめ、口を半開きにしていた。どんなに育ちが良さそうな顔をしていても、目を見開き、口を開けるというのは間抜けな顔だ。笑いそうになりながら「そうだよ」と郁人は憮然として答えた。

「いや、やりたいこととかなりたい職業とかないの?」
「うーん…ないかな」
「じゃあ、なんで東大に行くの?どこでもよくない?」
「母親が言ってたから」
「小学生じゃないんだから。自分で考えないと」
「二人はどうするの?」

 そんなに言うなら二人の話しをしてもらおう。人の事を否定するのだ。さぞかし、立派な夢があるに違いない。郁人は二人の発言の一言一句を聞き逃すまいとじっと言葉を待った。

「俺はICUに行くつもり。就職に強いし、リベラルアーツだからね。色んな事学べると思うし、英語も得意だし」
「俺も同じだな。就職強いっていうのがやっぱりいいよな」
「たいした理由じゃないじゃん」
「目崎君よりかはよっぽどまともでしょ」

 二人はまた笑って携帯に目を落とした。郁人は何も言い返せず、ただ黙って揺れるつむじを見つめた。携帯を見ると、母からの連絡が来ていた。どうやら今日はからあげが夕飯らしい。

「明後日あたり三人で遊びに行こうよ。息抜きにさ」
「どこに行く?ゴールデンウィークだからどこも混んでると思うけど」
「東京でサッカー観戦とかいいんじゃない?スタジアムそこまで混まないと思うし。帰りに買い物でもして帰ろうよ」
「サッカーか。子供の頃何度か行ったことあるな。目崎君はそこでいい?」
「別にいいよ。何でもいい」
「かーっ。目崎君。少しは自分の意見ってものを主張した方がいいよ。好きな事とか無いの?」

 吉野は頭を抱え、今村を見た。やはり自分はおかしいのだろうか。今まで母の言う通りにやってきて困ったことは何一つなかった。だからこれでいいと思っていたのだけれど、どうやら二人はそれがおかしいと言いたいらしい。

「特にないな。二人に任せる」
「そっか。じゃあ、LINE交換しよう」

 アプリに二人の名前とアイコンが表所されたのを見て郁人は思わず口角が上がった。やはり友達というものはいい。駄目な部分や優れている部分など、自分では知ることのできない自分を教えてくれる。それに何より楽しい。会話をするだけで辛い事などすべて忘れられるくらいに楽しい。
 郁人は思わず「よろしく」とメッセージを送った。目の前にいる二人は「何してんだよ」と笑い、すぐに返事を返してきた。


「違う大学に行きたいんだけど」

 夜、テレビを見ている母の後頭部にそう投げかけた。先程から映し出されているバラエティは男性アイドルが街を歩き、通行人に気付かれるかという検証企画らしい。帽子と眼鏡で変装した男がずっとおどおどと不審者のように歩いている。

「え?何?」
「大学。違う所に行きたい」
「東大でいいじゃない。せっかく行けるくらいの学力があるんだからもったいないでしょ」
「でも、塾の友達たちは目標があって大学選んでるから僕もそうした方がいいかなって思って」
「友達?」

 母の声が低くなる。郁人は慌てて話題を変えようと言葉を探したがもう遅かった。すでにあの時と同じ顔、同じ声でこちらを見ている。

「あなた、まさかそのお友達に何か吹き込まれたわけじゃないでしょうね」
「別に。将来の夢の話しになったから。それだけ」
「ふうん。将来の夢とかあるの?」
「ない」
「じゃあ、できるだけ頭の良い大学に行った方がいいんじゃないの?大学に行ってから将来のやりたいことを見つければいいじゃない。どうせ、今やりたいことがあったとしても、二十歳を越えるころには忘れてるか、興味なくなってるわよ。そのお友達たちもたいそうな夢を語ったのかもしれないけれど、そのうち変わるわ。くだらないわね」
「でも、皆本当に頭も良いし、しっかりしてるからさ。すごいなって」
「いい加減にしてよ。私はあなたの事を思って言ってるのよ。言う事聞いてちょうだい。やりたいこととか将来の夢なんて今決める必要はないのよ。とにかく勉強して東大にでも入れば周りの目は変わるんだから。あなたは顔も良いし、勉強もできる。それだけで何もしなくてもたくさんのチャンスが巡ってくるわよ。それでいいじゃない」
「それはわからないと思うんだけど…」
「わからないわよ。将来の事なんて誰にもわからないわ。だから、いい事が起こるように物事を選んでいくのよ。私が離婚したのもあの人と別れた方がいい人生が歩めると思ったからだし、あなたに東大に行った方がいいと言っているのもあなたにいい人生を歩んで行ってほしいからよ。言う事聞いてよ。あなたのためなんだから」

 母はため息をついて目線をテレビに戻した。

「もう、あの塾には行かなくていいわ。駄目なお友達がいると郁人も駄目になるから。個別指導塾にしましょう」

 そう言うと、母は次の日には退塾を申し込み、郁人は彼らとは会えなくなった。そんな事を知らずに、吉野と今村は郁人に集合場所と時間の連絡を呑気な顔文字と共に送ってきていた。

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「やばくね?それ、俺だったら暴れるかも」
「俺は口きかなくなるな。母親には何も言わなくなる」

 晴れたゴールデンウィークの最終日。郁人は二人と一緒にスタジアムまで歩いていた。想像通り、お洒落な服を着た二人は見慣れない人の多さと郁人の母親に驚きながらも楽しそうに話しを聞いていた。

「そもそも、お母さんに決めてもらってるって話し聞いた時からやばいなって思ってたけど、さすがに笑えないって。それ、毒親ってやつだよ。やばいよ」
「あー。最近も話題になってたな。やたらと学歴を気にする母親に嫌気がさして殺しちゃったっていう女の子の話し」
「殺した後の発言が『私と母のどちらかが死なない限り終わらない』ってやつでしょ。事実は小説よりも奇なりってこのことだね。ぞっとするよ本当に」

 二人はもう郁人の事など気にする様子も無く前を歩いていた。スタジアムが近づくにつれ、赤と青の印象的なユニフォームを着た人が増えている。スタジアムの前には出店も並び始め、お祭りのような雰囲気になっていた。

「お、美味しそうなやきそばあるぞ。食べようぜ」
「こういう所のご飯ってやたら高いんだよな。あっちのドリンクなんて一つで三百円だぞ。意味わからねーな。普通の水だったら三本買えるだろ」
「まあまあ、こういう所に来るのもなかなかないんだからケチらずに買おうぜ。目崎君はどうする?散財するとお母さんに怒られる?」
「そんなことないと思う。そもそも何にお金使ったとか言わないし」
「そっか。じゃあぱーっとお金使おうぜ。育ち盛りなんだからさ」

 試合開始までまだ三十分以上ある。吉野と今村はやきそばフランクフルト、ハンバーガー、ユニフォームなど食べきれないほど買ってスタジアムに入場した。席に着き、ユニフォームに着替え、観戦する準備が完全に整うと二人はエネルギーチャージと言わんばかりに買ったばかりの食べ物を食べ始めた。

「目崎君はさ、一人暮らしをした方がいいね」

 一通り食べ終えた吉野が流し込むようにスポーツドリンクを飲みながら言った。

「一人暮らしをして母親から離れた方がいい。マジで」
「俺もそれは賛成だな。冗談じゃなくて、本当にちょっとやばいよ。目崎君のお母さんも目崎君も。こんなこと言っちゃ悪いけど、完全に毒親と毒に侵された息子って感じだからさ。目崎君は自分が人と違う環境にいるって気付いてないだろう」
「僕は普通だよ」

 そう言い返してみたけれど、考えてみれば、学校では腫物のような扱いをされているし、二人にも不気味がられている。でも、それは母がおかしいのであって郁人は絶対におかしくない。普通だ。そう言い聞かせないともう自分が何なのかわからなくなってしまいそうだった。

「普通じゃないよ。普通は大学も将来の事も自分で決めるものだよ。塾だってそうだ。親が出てくるところじゃない。何かあったとしてももう高校三年生なんだから自分で解決しないとおかしいんだよ。しかも目崎君はお母さんが口を出すことについて何も疑問を持っていないだろう。それもおかしいんだ。普通の同世代の子供は親が口出ししてくると嫌なものなんだよ」
「それは君たちにとっての普通でしょ。こういう人だっているよ。それに僕は今までこれでやってきて困ったことは一つもないんだよ。母親に従っていれば上手くいく。だからそれでいいんだよ。今まで誰にも迷惑かけてないし、僕は困っていない」
「今村先生。これはかなり深刻ですな。長期的な観察が必要と判断されます」
「吉野助手。私もそう思います。ゆっくりと治していきましょう」

 二人がそう言うとちょうど試合開始の笛が吹かれた。数十分前から聞こえていた応援団の声はさらに熱を帯び、ピッチ上の選手たちは散り散りに忙しなく小さなボールを追っている。
 赤と青のユニフォームを身に付けた郁人たちは取り合えず同じユニフォームを着たチームを応援していたが、ルールがわからず、所々で鳴る笛に首を捻ってばかりだった。それでも試合は面白く、どうやら応援しているチームは勝ったようだった。

「いやー。白熱したね。サッカーの試合初めて見たけど面白いね。でもどうしてあんなにボールが飛ぶんだろうね。すごいよね」
「練習したからだろ。足は腕よりも筋肉があるからあれくらい俺らでも練習したらできるようになるんじゃね。今からでもプロ目指そうかな」
「プロ舐めんなよ。ボールが蹴れるくらいでプロになれたら誰だってプロになれるだろ」

 興奮したらしい2人は帰りの電車の中でもずっとサッカーの話しをしていた。

「目崎君も今日の試合面白かったよな。その後の買い物もさ」
「うん。面白かった」
「というわけで、これから目崎君は自分が面白そうと思ったことをやってみようか。俺らもついていくからさ」
「うん?」
「今日の感情を無駄にしちゃ駄目だよ。面白いと思ったことをやればいいんだよ。お母さんがどう言おうとさ」
「そっか。なるほど」
「で、今どうしたい?」

 電車が揺れる。日に焼けた皮膚からは独特な臭いがした。砂と皮膚の焼けるのが混ざったような臭い。でも、その臭いが今日の一日を思い出させてくれるようでなんだか嬉しく感じる。

「ちょっと会ってみたい人がいるんだよね」
「お、彼女か?彼女がいるのか?だとしたら話しは変わるぞ」
「抜け駆けは許さんぞ。我ら同士は受験が終わるまで彼女は作らないと酒池肉林の中で誓ったではないか」
「彼女はいない。男だよ。父親。この先の駅から近い所に住んでるんだよ」
「あ、ごめんなさい」

 二人は急にしおらしくなると、そのまま黙ってしまった。わざとらしく肩をすぼめるものだからふざけているように見えて笑いがこみあげてくる。
 数分すると、郁人の目的の駅に着いた。二人は「頑張れよ。また会おうな」と言うと、見えなくなるまで手を振ってくれた。やはりあの二人は良い人だ。学校の友達だった人とも違う。頭が良く変に気を遣わず、駄目だと思ったことはすぐに指摘してくれる。そんな友達に会ったことはない。絶対に手放したくはない。
 郁人は母に「今日は遠くまで来たから泊っていく」とだけ連絡をして携帯の電源を落とした。あとで驚くほどの着信とメールが来ているだろうが、そんなのはお構いなしだ。
 駅の改札を出て数十分歩くと、いかにも高所得者が住んでそうなアパートが現れた。確かこのアパートの三階に父の部屋がある。
 ずっとカバンに入れっぱなしだったメモ用紙を取り出し、確認してインターホンを鳴らす。すると、既にお風呂に入ったのか、つるつるホカホカしている父が上機嫌で現れた。

「おお、郁人か。どうした」
「いや。近くに来たからよっと寄っていこうかなって」
「ほほー。嘘だな。逃げてきたんだろ。お父さんにはわかるぞ。とにかく入りなさい」

 父の部屋は広く片付いていて良い匂いをしていた。まるでホテルのような綺麗な布団に大きなテレビ。インテリアのセンスもある。この部屋に入った途端、部屋全体が明るくさらっとした空気に変わった。母といた家とは大違いだ。

「で、どうした。何かあったのか」

 ホカホカした顔の父は急に真剣な顔になって言った。

「塾に通いたい。僕は行きたい大学があるんだ」
「へぇ。どこに?」
「国際基督教大学って所なんだけど」
「へぇ。なんで?」
「友達が行くから」

 そう言うと父は思いっきり笑った。最後に見た時よりも皺が増え、髪も少なくなり、髭やもみあげやいたるところに白髪が目立つようになったけれど、それでも笑い方は何も変わっていない。

「しょうもないなぁ。でも、そんなもんか。夢とか目標なんてすぐに変わるしなぁ。まあ、いいだろう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、今日は泊っていっていいよ。でも明日には帰るんだぞ」

 父親はそう言うと缶ビールを飲み始め、野球を見始めた。ルールのわからない郁人にとっては面白くもなんともないが、一人で盛り上がっている父親を見るのは楽しかった。
 夜十二時を過ぎた頃、郁人は父が普段寝ているベッドにもぐった。父はソファで寝るらしい。枕や布団には加齢臭がしっかりと染みついていて、正直ソファで寝たい気分だけど、せっかくの好意を無駄にはできない。

「お母さんはどうだ。いつも通りか」

 電気を消す前、ソファの上で縮こまった父が突然言った。

「うん。いつも通り」
「そうか。郁人。優しくしてやれよ。あの人も悪気があるわけじゃないんだ。ちょっとやり過ぎちゃうだけだ。だから大学に入って一人暮らしをするまでは優しくしてあげなさい」
「一人暮らしって言っても親の許可とかいるんじゃないの?許可されるとは思わないんだけど」
「根気よく説得してみたらいい。それでも駄目だったらお父さんが何とかする。心配するな」
「わかった」
「とりあえず、明日は帰るんだぞ。心配されるからな。それにこっちまで来られたらたまったもんじゃない」
「わかった」
「じゃあ、おやすみ」

 翌朝、ぐっすり寝た郁人は学校に休みの連絡を入れて、ゆっくりと家を出た。携帯の電源を入れると、母親からは案の定、目を覆いたくなるような数の着信が届いている。
 
 家に帰ったらとりあえず謝ろう。

 怒られることはわかっている。今までの郁人ならそれが嫌で好きな事ができないでいた。しかし、今は違う。自分の好きなように生きたらいい。
 空は快晴。雲一つない五月の空はそんな郁人の門出を祝ってくれているようだった。


 

 

 

 

 

 

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