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153センチ、73キロのわたし(休職日記49)


4ヶ月ほど前に、こんな記事を書いていた。


ここ数日、散歩ができるくらいに動けるようになったはいいものの、歩くとどうにも腰が痛い。

こりゃほんとに運動不足だな〜、ずっとソファとお友だちだったもんな〜、動けなかったもんな〜、と、呑気に思っていて、きっと体重も増えてるんじゃないかな〜、3キロくらい増えてるかな〜と、ふと体重計に、のってみた。



のってみたら、10キロ増えてた。



これには、いくらなんでもびっくりした。
いくらなんでも、そりゃあんまりだよかみさま、と、どこにいるんだかわからないかみさまに、言いたくなるくらい、びっくりした。



あらあらまあまあ、体重増加が止まらない。


ふつう、うつになると食べられなくなると聞いていたのだけれど、わたし、そういえば「ふつう」に食べてたな。


全く動けないときも、生きていたくないって思っているときも、「ふつう」に、食べてた。3食しっかり。


というか、「ふつう」に食べてたんじゃないな?たぶん、「けっこう」食べてたんだな?



この4ヶ月を振り返って、妙に納得した。なるほどねえ。そりゃあこんなに大きくなるわいな。



正直に言うと、この数字をみて、非常に傷ついた。


今、このnoteを書いているこの瞬間も、病気になる前はこんなんじゃなかったのに、と、病気のせいにしたい自分と、いやいやそれはお前の怠惰だよ、と、責め立てる自分が両方いて、こころはとても傷ついて、いる。


人生過去最高の体重を更新し続けて、一体わたしはどこまで行ってしまうのか。



でも、こうも、思う。


だってほんとうに動けなかった。動く気力がなかった。自分を省みる余力すらなかった。
だから、体型なんて、あたまの隅に、ちらとも浮かんでこなかった。


生きていたくない、と思っているのに、同居人氏たちが作ってくれるごはんをバクバク食べている自分を、情けなくて最低だと思っていた時間も、あった。


生きていたくないのに、のうのうと食べて、なにしてんの、って、自分を責め立てる声が止まない時間が、たしかにあった。


そういう時間を経て、出来上がったのがこの体なのだなあと、思う。


今、とても傷ついている。
でも、この傷つきを無視すると、あとあと厄介になることを、わたしはもう知っている。


だからちゃんと書いておこうと思った。
ここまで体重が増えてしまって、わたしは、いま、かなしい。かなしいです。


それで、かなしいからって、極端なことすると続かないし、続ける気力もないことも、知っている。


だから、今できることは、やっと行けるようになった散歩を楽しむこと。
でもそれも、疲れたら無理しないこと。
ちょっとしんどいけど、体重計に毎日のること。
でもそれも、しんどかったら、無理しないこと。


これくらいが、今のわたしに、わたしがしてあげられること。



昔だったら、もっともっと極端に自分を責めていたと思う。
でもいまは、それを、しない。
この時代、お洋服だっていろんなバリエーションがある。
「元の自分」に戻ることが、絶対の正解じゃ、ない。
「今の自分」にとって、どんな体型ならここちがよいのか、それを探すことが、たぶん、ベスト。


でも、そういう気持ちと、今日の傷つきは、どちらとも否定しなくてよい気持ち。
今日、わたしはたしかに傷ついた。
傷ついたうえで、さっきみたいに、考えた。
これはどちらも、なくさなくて、よい気持ち。


いいかい、わたしよ。
明日から、張り切って散歩の距離をのばしたり、絶食したり、するんじゃないよ。
少しずつ、少しずつ。
明日散歩に行けるなら、行けばいい。
無理ならおうちでじっとしていればいい。
ごはんの量も、気をつけられるなら気をつければいいけれど、くるしい気持ちになるなら、無理しなくていい。


いいかい、わたしよ。
無理をすると、無理が返ってくるんだよ。
いまのわたしは、そういうこころになっているんだよ。
いまのわたしを、無視しないでね。
大丈夫、ゆっくりやろうって、言ってあげるんだよ。

投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい