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正体のない不安(休職日記7)

どうやらこの不安には正体がないようなんです、と、主治医に言うと、


それは真実に一歩近づきましたね。


と言われた。
今日は週に1回の診察の日だった。


週に1回、先生の前に座るとき、わたしはあまり準備せずに臨む。
最近まで、あれも言いたい、これも言いたい、と思っていたけれど、状態が落ち着いてくるにつれ、その日その場で、先生と対面したときに出てくる言葉を待とう、と思うようになった。

これは、「会話の練習」という意味もある。

会話なんて練習しなくてもできる人もいると思うのだけれど、わたしの場合は、人と対面で話すとき、そうは見えないとしても、内心はめちゃくちゃ緊張している。
どうしても、相手にとっての「正解」を打ち返そうと、言葉の裏側ばっかり気にしてしまう。だから、会話が楽しくない。できる限り黙っていたい、誰とも話したくない、話さなければならない場面があるなら聞き役に徹したい、という気持ちになる。


そういうわけで、せめて主治医との診察の時間だけは、「正解」を探さずに、先生の言った言葉を受け止めて話す、ということを心がけてみることにした。


今日の診察で自分から出てきた言葉は、冒頭に書いたもの。
復職するうえで何が怖いのか、具体的に考えて、対策を練っておけるといいですね、と先週言われて、考えていたのだけれど、考えるとすぐに、もやもやとしたものが現れて、思考がそれより先に進まなくなる感じがした。

考え始めるとからだも緊張して、脈が上がる。背筋がぞわぞわとして、それをなだめすかして具体的な業務のことを考えようとするものの、なんだかしっくりこなかった。


つまりこれは、正体のない不安なのじゃないかな、と気がついた。


誰が怖いとか、どんな作業が怖いとか、そういうことじゃ、多分ない。ただ「怖い」のだ。怖くて怖くて仕方ない。怖くて怖くて、自信がない。
つまりは、そういうことなのだと思う。


そう思って、先生に、どうやらこの不安には正体がないようなんです、と伝えたのだが、内心は、「もっと考えないとダメですよ」「そこで立ち止まってはダメです」と言われると思っていたのに、先生の言葉は予想外のものだった。


真実に近づいた、と言われて、なんだか拍子抜けしたけれど、でもたしかに、具体的なことを無理やり考えて対策を練ろうとしているときよりも、この不安には正体なんかないんだ、ただ「不安」なんだ、と認めたほうが、自分に正直な気がした。


不安が強いということで、薬の調整をしてもらって、今日の診察は終わった。



わたしが、乗り越えなければならないというか、受け入れて共に生きていかなければならないものは、正体がないようだ。
正体がないのなら、もうそれは、思い切ってやってしまうのが、1番よいのではないかと、思う。
つまり、思い切って、怖くても、復職してみて、ダメかどうか確かめるってことだ。


こう書いていてもすごく怖いのだけれど、今の自分に思いつくのは、その方法しかないなあと、思った。

投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい