『教師』を志した少年時代(大学生)後編
少年時代。
僕は、『教師』を志していた。科目は「国語」だ。
そのきっかけになった恩師が2人いる。
そしてある時、『国語の教師』を志すのをやめ、役者を始めた。
心の隅にはほんの少し『教師を志すのをやめた』ことが引っかかっていた。
でも、役者の道に進むことを決めた。
その背中を押してくれた恩師が1人いる。
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▼“ツケ”のダブルキャンパス
大学3年生になった頃、僕は映像から舞台に居場所を替えた。突発的な拘束がなくなることによってスケジュールは組みやすくはなったものの、以前より稽古と本番での総合的な拘束は増えた。しかし毎日のように部活に打ち込んでいたので、そのあたりは正直抵抗はなかった。できれば毎日稽古がしたいくらいだったが、単位をこぼしまくっている。
当時は3、4年になるとキャンパスが東京の九段下に代わったのだが、僕は1、2年で悉く単位を落としているため、千葉県柏市まで通わなければならない。いわゆるダブルキャンパスだ。
後輩の中に混じって受講する授業は、恥ずかしさのあまり逆にちゃんと参加できた。なにせ「テスト範囲教えて」「レポートやった?」なんて聞けない。恥ずかしい。
とにかく、あとがない。単位を落とせない状況。
ほぼ毎日《戸塚〜柏〜九段下》の移動のあとに《浮間舟渡(稽古場)〜戸塚(深夜のバイト)》という、ただでさえ多かった移動がよりカオスになった。
ダブルキャンパスになっているのは、他の誰でもない、自分の責任。
芝居をやりながら卒業するにはダブルキャンパスしかない。
周りの同級生が自由な時間が増える中、僕はタイムトライアルのような毎日を送ることになる。
1〜2年の時のツケ”が回ってきたのであった。
▼始まった就活と研究室
そして4年になると就職活動が本格化。みんなはどこに採用された、どこに落ちたと話している。
僕はそんな話題に目もくれず、舞台に打ち込んでいた。部活の時のように、休みなどなく、ただただ本番に向かって打ち込む。
当然、周りとの温度差は増していく。大学内に自分の活動に対して共通言語を持つ人はほとんどいない。
(唯一、今でも毎回のように観劇にきてくれる親友とはこの頃から良く遊んでいたので色んなことを共有し経験した。その話はまたこんど。)
一方でゼミは、寝坊で遅刻欠席しながらも楽しく通った。仲間がいるとこうも居心地が違うのか。そんなことを感じていた。
3年で京都のクラブに行ったらしい。僕は舞台で行けなかったが。新設されたゼミなので前例がないところから始まるのだからなんでもありなのかもしれないが、2年前までは国語の教員を志していたはずで、その頃と変わらず国文学科のゼミにいるはずなのに、不思議なゼミだ。その不思議さが心地よかったのかも知れない。
そしてもう1つ。ゼミでの密かな楽しみがあった。それは研究室だ。
研究室とは、高校までの感覚で言うと職員室。
先生個人の部屋。
なので、先生の秘密基地に遊びに行くような楽しさがあった。
周りの仲間は就活とか、卒論とかレポートとか、色んな理由で研究室に出入りしていたけど、僕は正直、理由はそんなになかった。
大学の中にある数少ない、自分に許された居場所のように感じていたのかもしれない。
▼ゼミ合宿in熱海
4年のゼミ合宿。
熱海にいくことになった。僕は舞台の予定が被っていなかったためようやく行くことができた。その前に合宿のための会議があった。
内容は《映画撮影》。ただの一般学生たちで映画を撮る。映画に関しては自分含めて、全員素人。映研サークルの子が何人かいて、その子ら中心のキャスティング。僕は役者を始めていて、妙なプライドがあり、みんなと一緒に芝居をしない方が良いと感じ「監督ならやるよ」と言った。そしてすぐに寝た。
授業の終わり、本当に監督になった。自分含めて、全員素人。
他に頼れる人がいない。
でも分からないなりに、色々と試行錯誤しながらトライした。
手探りで、とにかく夢中で撮影を進めた。
仕上がりはさておき、2泊3日で撮るという制約の中、みんなでなんとか撮り終えた。
僕にとって、ゼミ合宿が大学で唯一全力で取り組んだ時間だった。
そして先生はこのことを非常に褒めてくれて、今でも僕のことを後輩たちに紹介する時に合宿の話をしてくれる。
撮り終えた夜。
親友と熱海の海辺でお酒を飲んで語った。
ややイタめの思い出が22才らしくてたまらない。
▼約10秒の面談
ゼミ合宿が終わり、進路相談。
僕は研究室で先生と2人きりだった。
ずっと就活をしていない僕にとって、楽しくない時間だ。
あれだけ息巻いて中学と高校と恩師に「先生になります!」と言ったのに、教員免許は愚か、ダブルキャンパスで卒業さえ危うい。ましてや就活も一切していない。する気もない。芝居の道に進むと決めている。
多分何かしらの説得はされるのだろう。仕方ない、先生もそれが仕事だ。
「大部は進路どうするの?」
「そうですね。僕は芝居の道に進もうかなって思ってます」
「そうだよな。大部なら大丈夫やろ。頑張ってな
。それでさ……」
面談は10秒で終わった。
そのあとはいつも通り、先生の研究室の本やCDを交えた雑談。
あまりの短さに驚いたが、その後の雑談も楽しかった。
この短さは、僕にとって非常に勇気の出るものだった。
自分が決めた道を進んで良いんだ。
背中を押してもらえたように感じた。
先生の好きなものが詰まっている研究室の中、僕はふと思った。
僕は、好きになったものを突き詰める姿に憧れていたのかもしれない。
自分が好きなった音楽をいつまでも追い求める、中学のなるひろさんのように、
自分がひたすらに打ち込んできたひたすら野球を続ける、高校の李先生のように、
自分の道を追求して、新たなゼミや学科を切り拓く、大学の松本先生のように、
面談の前まで、心の隅にはほんの少し『教師を志すのをやめた』ことが引っかかっていた。
でも、役者の道に進むことを決めた。
その道こそが、少年の僕が心惹かれた大人たちと同じ生き方だから。
この約10秒の面談は、僕にとって今でも忘れられない重要な時間だ。
ちなみに、卒論は横書きだった。日本のヒップホップカルチャーについて論じたことを覚えている。
国文学科卒業なのに一切国語の勉強をせず、夜通し音楽を聴き込む日本語ラップヘッズに成りかわっていた僕にとって、唯一能論じられる分野だった。おかげで卒論も無事受理された。
このゼミに導いてくれた親友に感謝しかない。
▼卒業後の繋がり
僕らはゼミの1期生として卒業した。
その後のゼミ合宿でも映画の撮影は続いており、僕は後輩に演技指導を何度かした。現役の時よりも真面目に大学に行っている気がする。笑
1期生の時の合宿の文化が今でも浸透し進化し、今では先生が作った新たな学科まである。やはり担任運が良かったのだと思う。
大学の先生とは、今でも連絡を取るし、仲間と共に先生のお宅にお邪魔してご飯をご馳走になっている。
観劇にも頻繁に来てくださるし、僕にとって恩師であることには間違いないが、先生はまるで僕を「同志」や「仲間」のようにみてくれていて、対等な関係として付き合ってくれる。
感謝しかない。
あれから約10年。
僕は今も、自分の好きなものに向き合い、日々もがきながら人生を過ごしている。
いつか3人の恩師に恩返しができるように。
あなたたちのおかげで今があります、と胸を張って言えるように。
これからも、自分の道を、この道程を進んでいく。
おわり。
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