『教師』を志した少年時代(大学生)前編

少年時代。
僕は、『教師』を志していた。科目は「国語」だ。
そのきっかけになった恩師が2人いる。

そしてある時、『国語の教師』を志すのをやめ、役者を始めた。
心の隅にはほんの少し『教師を志すのをやめた』ことが引っかかっていた。
でも、役者の道に進むことを決めた。
その背中を押してくれた恩師が1人いる。

(前回の記事はこちら)


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▼燃え尽き症候群

高校野球の最後の試合が終わり、文化祭が終わり、“なんとなく”受験勉強に打ち込み、大学に進学した。
高校の顧問の先生(担任ではない、もう1人の方)に「部活が終わったら燃え尽き症候群になるやつが多いから大部も気をつけろよ」的なことを言われたことを覚えている。当時の自分はこの言葉を知らなかった上に、部活、文化祭、大学受験が順番に終わった時に「燃え尽き症候群」を内側で感じた。

燃え尽き症候群(もえつきしょうこうぐん)、バーンアウト(英: Burnout)とは、一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した結果が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。あるいは、努力の結果 目標を達成したあとに生じる虚脱感を指す場合にも用いられる。

(出ましたレポートでやったら怒られる技「Wiki参照」)



僕は、大学の雰囲気にどこか馴染めずにいた。
想像していたキャンパスライフとは程遠い。でもそれは高校の最初も同じであったが、そうではない。なんというか、目標・目的がない。
「先生になるために大学に通いたい」わけではない。「先生にはなりたい」でも「大学に通う意味はよくわからない」という気持ち。
(あくまで18才の少年の幼き考えなので大目に見ていただきたい)

そして、物理的に距離が遠かったことも影響していたのかもしれない。
地元の神奈川件横浜市から、千葉県柏市まで片道約2時間。中でも特にスクールバスは片道20分で、1時間に2〜3本。少しでも遅れると授業の遅刻は確定。

入学したてすぐの頃、僕は何かを悟った。
自分が燃え尽き症候群だと自覚するのに、時間はかからなかった。


▼劣等生

あれだけ高校で楽しい学生生活を送っていたのに、大学が楽しくない。燃えるような目標・目的がない。この大学で自分は何を成し遂げたいのか?
もちろん教師を目指す以上、教員免許を取得するための【教職過程】に参加する。しかし普通のカリキュラムとは別で受けることになるので授業の数は増える。

勉強の意欲がとてつもなく落ちていた。
なんで高いお金を払って通わないと行けないんだ?
なんで親は「大学は卒業しなさい」というのか?
これから先の人生も、何かがぽっかり空いた気持ちのまま暮らしていくことになるのか?

余計な事ばかりを考えてしまう。


気がついたら授業の参加率は落ち、たまに参加しても講義の内容も分からない。
つまらない。つまらない学校生活のために往復4時間かけて通学する。地元の方が楽しいから学校の近くでなんかほとんど遊ばない。地元で朝まで遊んで、気がついたら1限に間に合わない。
どんどん大学が楽しくなくなっていく。

燃え尽き症候群を自覚してほどなく、僕は絵に描いたような劣等生になっていた。

▼ワクワクする気持ち

とはいえ楽しいことがないわけではない。
大学で少数ながら友人はいた。昼休みに一緒に過ごす仲間もいたし、今でも連絡する親友にも出会えた。

地元の友達と遊んでいる時、友人がこう言った。
「俺の大学の友達がこないだ撮影に行ったみたい」
そのエピソードトークを聞いたあと、僕は、若気の至りも甚だしくて恥ずかしいのだが、「俺もテレビ出よ〜」と口走っていた。
そんな軽く言って出れる世界じゃない。今だとよくわかる。

でも当時の僕はワクワクすることに飢えていた。
自分でも気づかなかったが、少年時代ずっと打ち込んでいた野球で僕はワクワクしていたのかもしれない。『全力で打ち込む』が当たり前で、当たり前にそれを許してくれる場所がいかにありがたいかを知った。

ワクワクできる場所ってどこだろう?

そんなことを考えていたら、
僕は、自然と友人の友人の通う事務所の情報を聞き出していた。


▼志半ば

一方、学校にはサボりつつも一応通っていた。
教職過程の授業中、グループ討論(ディベート)をする時間があった。
90分授業の最初の方で先生の講義を聞き、後半はグループに分かれ議論。
前半寝ていたせいで内容は分からない。教育についてのなんちゃらとかだった気がする。分からないくせに意見を求められたら一丁前に話した。そうすると、なぜか自分の意見が通ってしまった。
グループ討論のあとはグループごとの発表。僕は代表者に選ばれた。

7〜8グループの発表の末、自分が1位に選ばれた。

驚いた。でも、嬉しくはなかった。
いや、その場では少しくらいは嬉しかったと思うが、僕の通っていた大学は
、国語の教師を日本で一番輩出していると聞いていた。その話が本当だとした時に、なんだろうこの違和感はと思った。

「自分みたいに適当にやっている奴でも先生になれる可能性があるのはやばい」
とその時に感じた。これから先の人生が、なんとなく想像がついてしまった。漠然と、だけど鮮明に。

もっとワクワクして生きたい。
あの先生たちみたいに自分の好きを追い求めた生き方がしたい。


後期からは教職過程を受講することはなくなった。


そして僕は、大学に通いながら養成所に入ることになる。

▼親友の助け

大学2年になって、自分はすっかり撮影・レッスンに夢中になっていた。
おかげで単位はことごとく落とし、留年寸前。

退学しようと考えていた。
なにせ教師になることをやめた。
親やかつての先生たちへの罪悪感があるが、居ると余計に迷う。
でも、親友が止めてくれた。止めてくれるどころか、単位を取りこぼさないように「明日の授業は来た方がいいよ」とか「テストはここが出るからやっといた方がいいよ」とか、教えてくれた。感謝しかない。

その彼のおかげで3年に進学することができた。

3年になる前に、希望のゼミを出さないといけなかった。
意欲のない自分は、当然どこでも良い。
第一志望、第二志望、その親友と全く同じゼミに提出した。

僕と親友は無事、第一志望に入った。定員ちょうどの応募だったらしい。ラッキーだった。


第一志望ゼミの先生は新任で、年齢も30代と若い。
めっちゃキレられたらどうしようかな。ギラギラな人であわなかったら、おれやめちゃうかもな。担任運はもう使っちゃったしなぁ。なにせ教師になること諦めたし。

ドキドキの3年が始まった。

のちに気づくが、その先生との出会いは、僕の生き方を後押ししてくれるきっかけをくれたものだった。


担任運はまだ残っていたようだった。


つづく。




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