見出し画像

『言の葉に電語化』を磨き上げたマタギドライヴ


noteを始めた動機

noteを始めてみようと思ったのは落合陽一氏のnoteに蓋を開けて読んでからである。それまでアプリをインストールする事も考えてなかった。始めてみると他のSNSより言語化しやすい。
一貫性のあるようなブロガーやビジネスアカウントのように使うか悩みました。
落合さんのnoteを読んでいたら一つの記事にビジネスがあり、感性を言語化した記事もあり、ワークアズライフのように感じる。
学び・気づき・近況状況とかの文言を使ってるユーザーがいるとしたら、落合さんの場合これらを使う事もなくリアルタイムにデジタルネイチャーとしてインターネットの海原を冒険してる。
AIで全て言語化するとnoteから自ずと人が薄れて行く。
私達は機械に触れて言語化して仕事をしている。そこに機械があるから言語化を保存できる。
つまり、言語化も自然言語も同様だが機械言語と識別できた途端に何かが起こる。

マタギドライヴと共類

世を捨てよ、マタギドライヴに生きよう。
物理的な出会いの話題性と共通点で盛り上がると遠方から行くことができず、事情などもあり、何者でもなく面識もなくなる。
そこにルールを設けられるのは難しい点。
何者かを問うのは「宇宙の卵より輪廻転生を幾度も生まれ変わる自身を問うている」ようなものだから私にとって面識点は何だろう。
仲間や関係性が続くというのは難しい。
あの頃は仲が良かったのに時間が過ぎれば、会うことすらなくなる。
長続きや質の濃い仲間にはお金もかかる。
お金をかけてできた仲間もいつまで続くか分からない。人脈、文脈、この脈は面識などを通じて共通・共感・利他共益のネットワーク網を構築する。
人脈ネットワークから「質量のあるものは壊れて質量のないものは忘れる」を感じる。
自分達は人という物質のネットワーク圏にあるが不老不死ではない生物なのでいつかは壊れる。
planetsを主宰する企画ユニットの宇野常寛氏の編集によるマタギドライヴ。
『魔法の世紀』をはじめとする単行本など、既存の枠にこだわらない多岐分野に渡る書籍・雑誌を出版。
※ 宇野常寛氏はFacebookの友達だったことに後から驚いた。
落合さんの話してた宇野さんって…!あの宇野さんだ!

LLMと言語化

大規模言語モデルでは要約が簡単になり、2進数のように消滅する単語が出てくる。
2進数という原理は効率的と非効率的な芸術の定めであり、もしくは終わりの始まりと帰納。
なぜプログラミングはどれもアルファベットであり日本語ではないんだろう。2進数は消滅するのだろうか。それは分からない。
AIが文章を作ろうとしても自らの言語を記し続ける人々を見かける。
音楽が人か機械かなんてどうでもいいように、文章が人か機械かなんてどうでもいい。
人が執筆してきた書物は研究に使用される論文の文献などで必要になる。

言の葉に電語化

葉の上に付着した小粒の雨を撮影して、粒子に変換したら、落合さんが展示していたタマムシの羽のような写真が出来上がる。
言語化によっては、良い写真が出来上がったとしても、良い写真を紹介するとどこかビジネスを感じれて何とも言えないようになる。
良い写真は説明文がなくとも良かったらそれでいいではないか。
観てくれる側があり、自分なりの工夫があり、あってもなくともそれが磨くことなんかな。 落合さんが「それは自分の言葉?」とSNSで呟いていたのを覚えている。自分の言葉として言語化するが発信する勇気に迷いがある。何文字か言語化をしてみたが、投稿するか微妙な仕上がりになった。
例えばエンジニアのワードを省けるではなく固定されているキーボードの上のように文書の様式はきちんと書き、論理的に揃えるようにする。
論文はルールに基づききちんと書き並べる。SNSなどではルールに基づいて自由に表現する。

<言の葉に電語化>
この文字を書いて思い出した。
これだ…電語化⁉︎
chatGPTのようなLLM以外にも電子機器を用いたSNSでよく「学びや気づきを言語化してみました。」と見かけるのにパッとこなかったのはこれだ。

落合さんの情報量は遥かに多くて自分の情報量が多くて悩んでいても少ない方だ。
【塵も積もればデジタルネイチャー】
自然の自の囲みを消すと美に近づく。

大阪博覧会テーマ「磨く」を共に考える

「磨」で浮かんだのは、子供の頃に美術か工作の授業で磨き上げた勾玉だった。
自分磨きというワードが流行していたのは大学生の頃だった。
自分磨きってなんなんだ。ひたすら化粧をするってことかなと考えていた。トレーニングをして大会に出るとか、読書とか自信とか実績作りとか今やっている方が将来にとっていいことの意味らしい。

つい最近だと磨き上げたアートをプレゼントしました(木材に魂を込めながら彫刻刀で彫る→ニスで磨き上がったアートをプレゼント)
実際にアートを展示した日もありました。
磨きというのは美の表現を指すのかもしれない。
言語化をすること、写真を撮ること、アートで表現すること、利己的利他的な観点から工夫しながら美を追求した未知の世界をアートで磨き上げてプレゼントの概念で展示してみよう。

「他の山から出た粗悪な石も自分の宝石を磨くのに利用できる」ことから「他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなる」と

中国最古の詩経「他山の石」

語彙を磨く


読書をすると難しい語彙が読めるようになる。
「頑張れば何とかなる」の隣に「頑張らない日も大事」の隣に「頑張らなくても何とかなる」 
このように書店の本棚はだいたいこうなっている。
情報過多はHSPの全てでもあるインターネットがあり、コンピューターは人間の持つ頭脳だとキャパオーバーしている。AIで要約が出来てもインターネットの情報は減らない。
情報量の多さを環境処理感受性を身に付けて記憶と注意力(不注意優勢型ADHD防止)を保ちながら細やかなフローチャートで処理していくのにある程度を遮断することはできるがフィジカルでの実行は私でも難しい。

HSPを障害と性質の二極化で悩んでる人もいます。どちらかというと性質に近いでしょう。
水が濁って見えるのはあなたの心が濁ってる。もしくは資本社会が摂取している。と語れば、なるほど、物質として素材成分や技術加工から寿命や倫理共存の許容範囲として見えている。
地方だと公共物を修理する費用が集まらない=〇〇が入るわけだ。
その〇〇に歌詞と組み合わせてしまう。
語彙を吸収したくなってたくさんの語彙を吸収したあとに疲れやすくなるのもひとつだ。
歌詞のほとんどは抽象的な文脈の詩であり、これは良いと感じるテンポ感やリズムに抽象的な語彙に対して論理的な処理が複雑化する。
感性と倫理で歌詞を吸収してしまうのでどのような回路で実行するとシステムが豊かになるのか考えているポイントである。

Highly Sensitive Person、HSP)とは、環境感受性(Environmental Sensitivity)あるいはその気質・性格的指標である感覚処理感受性(Sensory Processing Sensitivity)

Wikipedia

注意欠陥・多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい、英: attention deficit hyperactivity disorder、ADHD)
不注意,多動性,衝動性から構成されており、
不注意優勢型,多動性・衝動性優勢型,混合型の3つの病型に分類される。

Wikipedia


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?