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キャリアコンサルタントが実践した、親の介護との向き合い方

はじめに

こんにちは。先週の德門徹さんからバトンをもらったネクストキャリア・ナビゲーターの平井厚子です。在宅で母の介護をしながら、ご縁をいただいた仕事をしています。
「ぷろぴの広場」をお読みくださっている方のなかにも親の介護をされている方がいらっしゃるのではないでしょうか。今回は私がどうやって母の介護と向き合ったかを、お伝えしようと思います。

突然始まった母の介護

母の介護が始まったのは、2021年10月です。サービス付き高齢者住宅に独居していた母がしりもちをついて骨折し、急性期病院に入院したのが2021年5月。要支援2のときです。リハビリ病院に転院して治療を続け退院したのが10月で、要介護5になっていました。要支援2から要介護5というのは、入院時は独居できて杖をついて歩いていたのが、退院時はベッドで寝たきり、車いすにも乗れずに担架で移動、認知症が進んで子どもがえりしている状態でした。

要介護5ですから施設にと思いました。でもご存知のとおり、そんなにすぐに施設はみつかりません。母のサ高住に私が同居する形で在宅介護を始めました。
ケアマネさんやかかりつけ医さん、サ高住の介護スタッフさんに助けてもらいながら、介護体制をつくりました。母は褥瘡(床ずれ)が酷くて、皮膚が壊死したところも広範囲にわたっていました。リハビリ病院を退院した翌々日にもう一度急性期病院に入り、壊死した皮膚を全て切除しました。それから毎日訪問看護とリハビリを受け、治療に入りました。

起業したばかりの仕事に影響が

私は起業して2年目でした。前年2月に起業すると同時にコロナ禍が始まり、実質失業の苦しい状態が続いていました。一年半ほどたったこのころにはZOOMが一気にひろまり、オンラインでの講師や面談のご依頼が発生しつつありました。ところが私は仕事どころではありません。在宅介護の体制はできたものの、まったく仕事に集中できませんでした。
「 まわりは仕事が動き始めてんのに」
「全然前に進めへんやん」
「来月の収入が見通したてへん‥‥」
社会が手さぐりで通常モードに戻ろうとするなか、取り残され感満載でした。
焦る気持ちが高じて母を怒鳴りつけることも増えてきました。
「食べたいって言うから作ったのに、なんでこんなに残すの!残すんやったら食べたい言わんとき!どうすんの、これ!」
「‥‥食べる」
悲しそうに言う母と自己嫌悪で落ち込む私。

「あれ?私、キャリアコンサルタントやんなあ」

そんなときふと我にかえった瞬間がありました。
「あれ?私、キャリアコンサルタントやんなあ」
「もしいまの私がクライアントで来たら、キャリアコンサルタントの私はどう対応するやろ?」
いま思えば、よくここで我にかえったもんです。「もしこれがクライアントだったら」と突き放して自分をとらえることで、混乱状態を抜けることができたのですから。

キャリアコンサルタント・平井厚子の処方箋

それは「母との関係を再定義すること」でした。
自問自答しながら思いつくことをまんま書き出すセルフ・コンサルティングで、私の課題は
「子どもがえりしていく母を受け入れられない」
ことにあるとわかりました。
私は親の介護でいちばんしんどいのはここで、その原因は「親=保護者、自分=被保護者」の関係が逆転し、「自分=保護者、親=被保護者」になることだと感じています。これは、ものごころついたときからの安定的な世界観がひっくり返るということです。うちの母は気の強い、ほんとうにしっかりした人だったので、その母が変わっていくことに私は耐えられませんでした。


これまでの関係が崩れるなら、再定義するしかありません。そこで私は「わたくし年表」を書いてみることにしました。「わたくし年表」は自分史です。「わたくし年表」を書くことの効果を、こんなふうに考えました。

「わたくし年表」を書いてみた

Excelで「年・月・年齢・私の記憶」の項目の表をつくりました。ここに思いつくままに書き出していきます。忘れていたことが連想式に思い出されたら、遡って行を挿入して書き足します。

そうやって作業をしていると、印象的に思い出したことが2つありました。
1つめ。小学校にあがるかあがらないかのころから、私は蓄音機でレコードを聴くのが大好きでした。レコードは母が買ってきてくれます。童謡やディズニーや童話など、どれもみごとに私が気に入るものばかりでした。
もう一つ思い出したのは夏休みのラジオ体操です。友だちのさよちゃんが迎えにきてくれたのに、私は起きるのが嫌で「行かへん!」と駄々をこねました。母が「お母さんも一緒に行くから起きよ。な?」といっても「行きたかったらお母さん一人で行ったらええねん!」ときかなかったのです。

これ、いま、真逆なんですよ。
寝たきりの母はiPadで時代劇や童謡を見ています。iPadを買い、毎日見る番組を選んでるのは私です。 
母はうとうとしていることも多く、訪問看護がこられたら私が起こします。「起きれる?」ときいてもイヤイヤをして起きないことがあります。

「そうか、むかしお母さんがしてくれたことを、いま私がしてるだけなんや」と気づきました。そう思ったらExcelを入力しながら涙がとまりません。子どもがえりしていく母について、私のなかでするすると答えがでてきました。

母との関係の再定義、私が母の介護に向き合う意味

いまの母と私の状態は、
「むかし母がしてくれてたことを、いま私がしているだけ」
「人が老いるということを、母が身をもって教えてくれている」

のだと気づいたとき、
「子どもがえりしても母は母。私は娘」
といまの関係を再定義して、受け入れることができました。
さらに、私にとって母を介護する意味は
「母との最後の時間をいとおしみつつ過ごすこと」
「絶対に後悔しないこと」

だと明確にできました。

感謝の強要ではない 再定義はひとそれぞれ

セルフコンサルティングと「わたくし年表」で、私は介護についての自分の気持ちを整理し、向き合い方を決めることができました。ただ念のため付け加えると、これは感謝を強要することではありません。どのように再定義するかは人それぞれです。
過去のクライアントに、親とは絶縁状態の方がありました。その方は将来の介護のことを考えると気持ちがふさぐ。絶対にいやだ。でも長女だからみんなが「あなたの役割」としてみている。耐えられない。と話されました。彼女がもし「わたくし年表」をつくったら、どんな経緯で自分の気持ちがこうなったのか、これはもう変えようがないのか、を見つめ直し、どうしても無理だと結論がでたら、変な言い方ですが、確信をもっていまの親との関係を選べるのではないかと思います。
あいまいな気持ちのまま向き合うには、親の介護はしんどすぎます。結論は人それぞれでも、親との関係を再定義して介護との向き合い方を決めることがたとえどんな選択であっても気持ちを楽にすると、自分の経験からお伝えしたいです。

いまの私を絵にしてみると


こんな感じです。

私は母を背中にしょって、前に進みます。指さす前方には私が力になれるであろうクライアントがいます。私はその方々に出会わないといけません。この仕事は一生が勉強です。右手の本はそれを表します。
背中の母は大好きな中村屋のコロッケとリンゴをもって、機嫌よくゆられています。時々「広島県呉市立長迫小学校校歌」を歌ってくれます。
介護しながらワーカーがあと何年続くかわかりませんが、いまのところ母も私も元気です。

来週の担当は臼井 資則さんです。前回担当したときも、臼井さんにバトンを渡しました。よほどのご縁ですね。前回臼井さんを「令和の信長」とご紹介したので、私は「令和のお市の方」ということで。しゃんしゃん。


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