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順序を間違えた開発のツケに追われない組織開発

外部の知恵は、借りても主導権は渡さないという強い結束力は、組織の在り方にも通じるように思います。

高層ビルがもたらすもの

丸の内と八重洲に建つ高層ビルが、都心にヒートアイランド現象を生み、ウォーターフロントに建つタワーマンションがそれに拍車をかけていることは、よく知られているところでしょう。『進撃の巨人』よろしく、幾重にも“壁”を掲げて、一体、何から守ろうとしているのでしょうか。ただ、周囲の環境を省みない孤立を、深めようとしているのでしょうか…。
再開発の名目で、高層ビルを林立させることは、そればかりではなく、おそらく街も衰退させていくことでしょう。下北沢は、街の努力でそれを回避できましたが、自由が丘は、どうもダメなような気配があります。
例えば、30mを超える高さのビルを住宅街に持ってくれば、千葉県・柏駅前など、地方でよく見かける寂れた街を生んでいくだけであるように思われます。もちろん、中目黒のような例外もあります。しかし、かつては中目黒のような街であった渋谷も、今は再開発で、街の面影が排除されてしまいました。結局は、同じ道を辿ることになるのかもしれません。
では、今、賑わいを見せている千葉県・柏の葉はどうでしょうか。この賑わいは、かつての多摩ニュータウンを想起させるかもしれません。そして、今の多摩ニュータウンの惨状を思い描くのではないでしょうか。

誰も住まない街

商業地は、地元民にとって、日常空間であるのに対し、観光客にとっては非日常空間となります。ビジネス街も同様です。ビジネスパーソンにとっては、そこが立ち寄る場所であるのに対し、住民にとっては生活の場となります。しかしビルの高層化は、丸の内や渋谷のように、生活の場としての日常を失った、誰も住まない街にしていくように思われます。そして、誰も住まい街は、果たして“街”と呼べるのでしょうか。
人が住む街は、狭く複雑な道が続くことで栄えます。それは、日常の延長線上として発展してきた結果だからです。しかし、そのような街を狭隘だとして、広い道路と区画した街に再開発する例が後を絶ちません。そして、地方の駅前商店街は、ご存知のように寂れていくのだと思われます。
これがわかっているのに、相変わらず繰り返されているのは、「どこが悪いか」にばかり目がいき、「どこが優れているか」を見ようとしないからではないでしょうか。そして、「今がいい」という人は声をあげず、「ここを直せ」という人だけが声をあげるために、なおさらその傾向を強めるように思われます。
本来、「もっと便利なら良かった」と思う人は、その街に来てはいけないのでしょう。なぜなら、そういう人が、例えば、そこに大きなビルを建てたり、巨大な店舗を誘致したりすることを提案し、街が一過性のブームに湧き、結局は街を破壊していくように見受けられるからです。

順序を間違えた開発のツケ

重要なのは、始めに不動産価値という視点があるわけではないと言うことだと思います。本来、不動産価値とは、後付けされるものに過ぎないのではないでしょうか。
そもそも街は、半永久的に存在することを前提に開発される必要があると思います。なぜなら、そこには“生活”があるからです。そのためには、地元民にとっての豊かさが、開発を考える第一の視点となるのではないでしょうか。そして、場合によっては、そこに観光客や企業の誘致がなされるのだと思います。したがって不動産価値とは、その結果として高まることがあるというだけのことであるように思われます。
このような順序を間違え、一過性の利潤だけを求めて街を考えることが、本当に妥当なのでしょうか。必ず来ると言われている首都直下型地震が起こった時、タワーマンションは軒並み倒壊すると警鐘を鳴らしている方もいます。もし、そうなれば、それは順序を間違えた開発のツケと呼ばれることになるかもしれません。

今いる人による開発

良いところを発見し、そこを伸ばしていく方法は、おそらく時間がかかり、そして目を見張るほどの変化をもたらさないでしょう。しかし、急激な、あるいは度を越した開発は、街を消耗品にします。街は、生活する人がいて初めて街となります。だから、その規模に合わせて、徐々に発展させていくことを考える必要があるのだと思います。
下北沢開発の成功要因は、来る人ではなく、住んでいる人の目線で開発したことでしょう。余所者による短期的な視点による口出しを、極力抑え込んだ結果だと思われます。つまり、外部からの意見は、知恵を借りることであり、主導権は渡さないという強い結束力が、ここにはあったのだと思われます。
組織の在り方も、ここから学べることが多いように思われます。

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