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ハラスメントに怯えた“分断”を“進歩”に換える組織開発

ピストルを持った何者かに襲われたとき、相手を立ち上がれないほどに殴りつけると過剰防衛と言われます。一方で、相手を射殺してしまったときは、正当防衛となる…。この違いは、「かわいそう」にあるような気がします。前者の場合は、包帯にまかれてベッドに横たわる姿を目にすることができますが、後者の場合は、感情を寄せる対象そのものが消失しています。このことが、第三者の評価に影響を与えるのではないでしょうか。昨今のハラスメントに対する取り扱いにも、同様のレトリックが存在するように思われます。すなわち、そもそも「ピストルを持った何者かに襲われた」人の心情よりも、病院送りにされてしまった人に対する第三者の心情が優先されているように思われます。

ピストルのように、第三者に対しても明確な(物理的な)“物”が明示できない場合、すなわちビジネス環境におけるハラスメントにおいて、「何が苦痛なのか、わかるように話せ」と問い詰めても、その心情を真に理解することは難しいでしょう。論理は科学であろうとするカタチではありますが、論理“的”な説明は科学に成り得ません。したがって、そこには必ず反証の余地が残ります。すなわち、「このような言葉を言ったらハラスメントである」というステレオタイプな対応は事実を歪曲するばかりではなく、当事者の感情をさらに傷つけることにもなると思われます。

誰かにとっての残酷さに目を向けることは重要な論点だと思いますが、実践は難しいでしょう。例えば、異性に対する感情の表明は、同性に対する感情を抱く者にとっては不快だろうからといってその表現を規制すると、それは、その表現を望む者にとっては抑圧となります。そこで、「そう感じる人もいる」として受け流す寛容さが必要だという人もいます。しかし、寛容さばかりを強調すれば、寛容を必要としない同類だけが集まるようになったり(コレステロールが気になるからと言って紅麹を飲んだり)、あるいは、無関心であることによって、みせかけの多様性をもたらしたり(末期症状になって初めて病気に気づいたり)と、かえって望まない姿を形成してしまうのではないかと危惧します。

ハラスメントの問題は、差違ある他者を屈服させるような行動原理(ディベート)が“正義”として認識されている者によって引き起こされる現象であるようにも思います。このような者は、往々にして、「私の気持ちは誰にもわからない」といった、対話を否定する主張(アイデンティティーあるいは価値観に訴える論法)に行き着き、結果的に協働ではなく、分断だけを招いているようにも見受けられます。そこで、このような者が跋扈する組織では、相手の主張が理解できなかったとき、「あなたは、そう考えるのですね(私は違うけど)」と承認することが推奨されます。もちろん、承認は自分の考え(感情)を捨てることではありません。だから、それだけを繰り返すようでは何の合意も得られず、結局は“民主的”な多数決に頼ることになります。言うまでもなく多数決は、分断を生みます。そして、否決された少数者が徒党を組んで多数派を駆逐し、また“徒党”の中で分断が起こるという連鎖が続きます。いわゆる、野党連合の馴れの果てというものです。

相容れない他者との交流をストレスレスに行える、すなわち、相容れない他者に対して自身の感情にも自由であることとは、他者との差違を認識したうえで、共存を探る行為ではないでしょうか。それは、誰かを黙らせることを目指さない対話であるとも言えます。換言すれば、相容れない他者を自己に取り込む思考の模索ということになるでしょう。「ハラスメントだ」と言って労働基準監督署に飛び込む(相手を糾弾する)のではなく、互いの感情を理解し合う“場”を持つことこそが必要なのではないでしょうか。

そこでは、何某かの決着がなされるでしょうが、その決着は、自身にとっての100点満点の結果ではないかもしれません。しかし、互いの主張の先にある結果ではない、第三極が示されると思います。そして、その第三極を見出すことこそ、“進歩”と呼ばれているものであるように思います。それは、その瞬間は充分な納得を得るものではないかもしれません。だからこそ、「今のところの答え」という考え方によって先に進むことが必要だと考えます。

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