【瞑想】生きる不安と向き合う
瞑想とは何でしょう?
心を鎮めて、今ここを感じる練習?
不安があっても、今ここを感じましょう。
不安があっても、それにとらわれないようにしましょう。
そんなことを言われます。
でも、それを聞いていて、なんだか、イライラというか、
「いや、それはただ逃げているだけなんじゃない?」という思いが、ふと、渦巻く事はありませんか?
「不安を考えない」というと、不安に蓋をするようなイメージが浮かびませんか?
不安に蓋をして逃げてばかり。だから私はダメなんだって。
そんな思考が展開するかもしれません。
私はよくこのパターンに陥ります。
そうやって、自分を責めるとき、次に思考は、「動け動け」と語りかけてきます。
今の自分はだめなのだから、その自分にならないように、
今の自分はだめなのだから、その自分から抜け出せるように、
「動け、動け」
焦りや恐怖が出てきます。
更に自分を責める声が聞こえます。
あのときもこのときもダメだった。
あの人よりもこの人よりもダメだった。
どんな思考が展開するか、
観察してみてください。
その思考をもとに動いてきました。
その思考をもとに決めてきました。
それでうまく行ったこともたくさんあったでしょう。
でも、少しだけ止まって、静かに振り返ってみましょう。
根本的な不安は解消されたでしょうか?
根本的な不安とは、大本の、不安の底の底にある不安です。
注意深く、そっと、刷毛で砂を払うように、思考を丁寧に見つめてみます。
そうすると、思考の根底には、拭うことのできない、どうしょうもない不安が横たわっている様子が見えてきます。
お金がなくなったらどうしよう
働けなくなったらどうしよう
病気になったらどうしよう
死んでしまったらどうしよう
愛されなかったらどうしよう
そんな、「どうしよう」が渦巻くところです。
それらを「完璧に」なくすことが不可能であることを、あなたは知っています。
いつかは死ぬし、病気になることもあるし、誰かに迷惑をかけてしまうこともあるし、どんなに親切にしても嫌ってくる人はいるし…
そんな、神様の部分、人が手を付けることのできない部分。
そこをどうにかしようとして、苦しくなります。
勿論、だからこそ何とかしようとするから、技術が進歩し、お金を稼ごうとし、社会を保とうとするわけですが
今はそのレベルの話をしているのではありません。
それは十分すぎるほどわかっているし、十分すぎるほど肌で感じてきています。
でも、
でも、尚、
不安で怖い。
どんなにポジティブに生きていても、感じることがある不安です。
生きていること、そのものが連れてくる、怖さですから。
思考で丸め込むことのできない、この怖さが気になって仕方がない時、
もう一つ上のレベルでの理解を必要としているのかもしれません。
死とは何だろう?
なぜこんなに苦しく感じるのだろう?
嫌われることがどうしてこんなに怖いのだろう?
どうして自分を嫌いに思うのだろう?
その答えを出すときに、逆説的ですが、頭での思考を一時的に止める必要があります。
思考に任せると、そのとおりだと思える、整えられた答えが出てきます。
良い子の模範解答。
しかし、頭ではわかっていても、不安が拭えないのはなぜでしょう?
どこか、自分で出した模範解答に違和感を感じていて、
本質的にはしっくり腹落ちしていない
満足していない
そう、感じているのかもしれません
または、これ以上の答えはないのだからと、納得しようとする自分と、何か反発するような自分とが抵抗し合う感覚かもしれません。
模範解答に疑問を感じても、わたしたちの脳は入れ子構造になっており、考えれば考えた主体の枠組みに影響を受けます。
瞑想は一時的にその干渉を止める役割をします
少しだけ、思考を止めて、社会の構造からも、〇〇すべきからも、少しだけ抜け出て、
静かに自分を見つめてみます。
どっしりとした、安心感を
ただただ感じる練習
自分が、何一つかけておらず
ありのままで良いことを教えてくれます。
ちなみに私は、パニック障害があった頃は、瞑想は苦手でした。
静かにしていると、思考が始まり、不安が増幅するのです。
そんなとき、数を数えたり、歩いたり、心を静かにする方法は無数にありました。
静かにするだけが瞑想の方法ではないのだなと。奥が深いものですね。
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