見出し画像

サウナの「黙浴」ルールに関する考察

カプセルホテルや銭湯のサウナが好きだ。控えめに言って愛している。

ご近所にコスパ最強の呼び声高い銭湯があって、朝サウナに通っている。

さいきんは、日曜日の朝でも、大学生の集団がいたりする。
5人前後で露天風呂につかりながら他愛ない話に興じている。

ぼくは黙浴厳守の一派ではない。基本的に寛容でおおらかな人間である。
銭湯などの大衆浴場での若い衆の会話も微笑ましいと思っている。
耳の遠いおじいさん同士が、デカい声で話し合う光景はむしろ安心する。

とはいえ、とはいえ、である。

銭湯ではなく、あくまでサウナに特化した施設で、サウナ⇒水風呂⇒外気浴を3セットぶちかまして「ととのう」の境地にいる最中、ふいの会話に黙浴ルールが破られる瞬間は、どうにも勘弁してほしい、と思う。

ただ、以前から妙に気になったのである。
なんで、ととのっているとき、会話、声、すなわち言葉だけがあんなに気になってしまうのだろうか、と。

その気がかりが沸点に達したのは、少し前のことだ。

銭湯でととのっていたら、急に外からががががっ、どどどどっ、と急に騒音が鳴った。時刻は8時半。道路工事が始まったのだろう。

そのあとも、アスファルトを掘って砕いてする結構な騒音は続いたけれど、ぼくはととのうことができた。

これはどうやら、音の大小ではない。言葉の特性が影響しているのではないか、と思い至った。かんたんな図を用いて考察したいと思う。

①対象そのものの世界と概念の世界:通常時

①通常時

説明に先立ち、事(こと)と言(こと)について、医学者・精神科医の木村敏の記述を引く。

こととことば
日本語には元来、との区別がなかった。「古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。
(中略)
どころが奈良・平安時代以後になると両社は次第に分化してきて、「言」は「コト(事)のすべてではなく、ほんの端にすぎないもの」を表す「ことのは」、「ことば」としてから独立するようになった。

木村敏「時間と自己」

図の中で「対象そのものの世界」と書いているのが「コト(事)」の範囲である。
一方、コト(事)と自分のあいだには「概念(カテゴリ)の世界」がある。ここが「ことば」の範囲である。

通常時、われわれは、外界から受け取る情報を、ことばという概念を使って分類している。

  • 外気浴スペースに置かれた「椅子」

  • 窓辺から差し込む「光」

  • 適度に吹いて来る「風」

  • 体を拭いたあとの「タオル」

  • ととのいそうだなー、とひとり発する「言葉」

こういうコト(事)を、ことばというツールを使って無意識に整理している。そして、自分が安全な状況にあることを確かめている

例えば、冒頭にあった「ががががっ、どどどどっ」という音も、道路工事の騒音である、と概念の整理ができたことによって、ぼくは安心を手にした。

サウナや銭湯で素っ裸になったとしても、認識のうえでは「ことば」という見えないカードに身をまとって生きているのである。

「何言ってるかわかんねぇ」と思われてそうだけど、気にせず進む。

②対象そのものの世界と概念の世界:ととのい時

②ととのい時

ととのい椅子に座って、しばし休憩する。

サウナと水風呂を経ているので、脳内ではβ-エンドルフィン、オキシトシン、セロトニンなどのホルモンが分泌され始める。サウナトランスと呼ばれる多幸感がやってくる。

すると、じょじょに「ことば」という概念の世界の膜が薄くなっていく。

体に触れている「椅子」、肌を心地よく撫でる「風」、まぶしい陽の「光」、乾いていく「タオル」が、より鋭敏に、直接的に感覚されてくる。(どういう脳や身体の仕組みなのかはわからないけれど)

「ととのう」の状態は、頭が真っ白になる感覚、とか、無我の境地、のほか、世界と直接つながってる感覚、と表現されるのをしばしば見る。

「ととのう」の言葉の生みの親である、プロサウナ―・濡れ頭巾ちゃんは、ととのう状態を「生死の狭間」と表現している。

われわれは、言葉によって世界を認識する。生きている限り、ずっと。

ととのい時に独特の、頭が真っ白になる感覚が心地よいのは、そうした言葉の世界という膜から、少しのあいだだけ解放されるからだと思う。

そして「ととのう」の最中に、ふいに言葉が聞こえてくるとどうなるか?

③対象そのものの世界と概念の世界:黙浴の破れ時

③黙浴の破れ時

ふいに、声、会話、言葉が聞こえてくる。黙浴が破られる瞬間。感覚が鋭敏になっているがゆえに、その声と言葉はするどく大きく自分に迫ってくる。

ことばとは概念そのものである。
自分を取り巻く、概念の世界の膜が薄くなっているところ、声という音とともに、概念の世界に意識が連れ戻される。概念の膜が張りなおされる。

④対象そのものの世界と概念の世界:概念の世界に戻る

④概念の世界に戻る

その結果は、上記イメージのとおり、概念の世界に意識が戻ってしまう。

①通常時に戻っただけなんだけども、②でととのっているときの、ことばの世界から解放された状態を知ってしまうと、④の状態は不快に感じる、というわけだ。

現代はデジタル化が急速に進んで、情報過多の時代と言われている。概念の世界をさらに分厚くしている。

情報が入るたび、われわれは無意識のうちに「安全か危険か」「価値があるか無いか」と言う概念の分類作業をさせられてる。
その結果、知らないうちに疲弊し、多大なストレスを抱えて過ごしている。

黙浴を破ることは誰かを(ストレスの多い)概念の世界へと連れ戻すこと、という説明は、まったくもってぼくの感覚による。

ただ、願わくばこのイメージが普及して、「ととのう」ための場所に限っては、なるべく黙浴ルールが守られると嬉しいなぁ、と思っている。

#ウェルビーイングのために