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年末ですね

動物クイズ〜非言語のエチュード

NPO法人あしおとでつながろうプロジェクトで「動物クイズ〜非言語のエチュード」を論文を目指してまとめてみました。言葉を使わずに即興演劇を生み出す方法について、ぜひお読みいただけたら嬉しいです!

仕事が救い

今年はうつ病の悪化で意識がぼんやりとしたまま、ピンポイントで集中力を発揮してきたので記憶が薄いです。
しかしそんな中でも、たくさんのお力を借りて重要な仕事をできたことは奇跡的と言えると思います。皆さんの知力が集まったとも言えます。
そもそも私は一生懸命考えるより、ラジオのようにふと情報を集めるような感覚があります。なので、生まれたメソッドなどは、今という時間を生きている人たちの感覚の総意のような気がしています。

うつ病とは一体?

もう1年8ヶ月もこの困った状況にいます。なんとか生き延びでこられてよかった。私自身まだ把握できていないままですが、14歳、22歳の頃同じ状態だったことがあるので、これは診断的にも適応障害ではなく生育歴によるうつ病なのだそうです。

この厄介なところは、ある期間の記憶がないために、自分的に辻褄の合うところで前後がつなぎ合わされてしまう、というところがあります。
これはおそらく、周りの人にとっては何か不快なことなのではないでしょうか。

やる気、興味、関心、そう言ったものがなくなってしまって、本当にただ生きているに過ぎない。ただ生きているだけで価値があるのかどうか、それはわかりませんが、生命を継続する責任はあるような気がして、日々を送ってきました。今、だいぶ回復してきたのですが、意欲はもう一つかな。

生きる意欲

子供の頃に旺盛だった生きる意欲はどこへ行ってしまったのでしょう。私は小学生に立ち返ってみます。小学生の私が一心不乱に打ち込めたものはなんだったか。
これがね、意外と現在に繋がっています。
森あそび。基地づくり。遊びづくり。影絵。押し花。切り絵。彫刻。粘土。


意欲を無くした私ですが、手や足が覚えていることというものがあり、手や足が、なんらかの興味を呼び起こしてくれます。例えば、デザインナイフを持てば、私は切り絵や版画をスイスイと進めることができます。ここに思考は挟まりません。手がつれていってくれる。
同様にタップシューズをはけば、私の意欲が見つからない日でも、なんらかの音が足元から聞こえてきて、それに追従するように、私は踊ることになります。

なのでね、思うのです。
生きる意欲がなくっても、身についた術というのが助けてくれる。それは例えば、掃除や料理やお皿洗いもそうです。なんら意欲のない日でも、手が、生活をすすめてくれる。クリエイティブな瞬間を勝手に作ってくれる。

私自身がどんなに不甲斐なくっても、私の身体はクリエイティブな作業をになってくれる。

記憶は身体にある

そう考えると、記憶は脳ではなく身体にあるのです。
そして、私の身体には、まだ、未知の何かを求めている気配がある。
だから、おそらくまだ死なないで、未知の体感を探しにいくのだろうな。

つまり、生命とは、脳ではなくて身体。身体がリアルに経験している体感のことを、いのちっていうんではないだろうか。

柚子の香り、生姜の香り、焚き火の煙の匂い。
目に映る、空の青さ、首筋で感じる木枯しの冷たさ。
膝に乗る猫の温かみ、柔らかさ、重さ。
猫に捉えられた子リスの鳴き声。

新しい年を、能動的に生きられますように。





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