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オタクである自分を認められたあの日まで #1

#1 オタクを辞める“べき”だと思っていた

「27歳 女性 アイドルオタク」


この字面を見て、どんな感情を抱くかー。

「いい歳した大人が(笑)」
「そんな大人になってまで、オタクをやっていてどうするの?」
「現実見た方がいいよ」
「いつまで夢見てるの?」

大人のくせに、痛い、現実見えてない、どうせまともな恋愛できてない。

冒頭のたった3つの情報を提供するだけで、ありがたいことにたくさんの助言をいただけることを私は知っている。こういう言葉を浴びる度に、「こんな言われ方をするようになったのはいつからだろう?」と思う。

小中高生の時には通過儀礼のように通るオタクの道。私の時代にはジャニーズ、K-POPアイドル、アニメ、声優など(なぜか邦ロック系はオタク的な部類ではなかったのが永遠の謎)友人それぞれ好きなものがあって、所謂“推し”がいた。推しでなくても、好きなゲームを1日中していたり、スポーツに没頭したり、我を忘れて何かに没頭した経験が誰しもあると思う。

しかし“大人”と呼ばれるようになるにつれ、何かに夢中になっていることを口にするのが憚られるようになった。「趣味は?」と聞かれても、まさか何かのオタクだなんて答えられる雰囲気は全くない。ジム、スポーツ、キャンプ、サウナ、グルメ、日本酒等、大人として“ふさわしい”趣味であることを求められるようになった。その趣味を聞いても、その人の個性があまり見えないような、でも共通の趣味を持っている友人とは出会えるような、そんな趣味であること、が求められるのだ。それはまるで目上の人にエレベーターのボタンを触らせてはならない、グラスが空いたらお酒を注がなければならないといったことと同じように。



“大人”という自我が芽生えて、そうあるべきだと求められていることに気付いても、私はオタク以外に夢中になれるものが見つからなかった。ジムに通ったり、グランピングに行ったりしたけれど、自分が汗水垂らして稼いだお金を自分が価値を感じるものに投じる、となると、推しに投じるオタクしかなかったのだ。

一方で、推しに投じるオタクであることは大人としてタブーのような見られ方をしていることも年齢を重ねれば重ねるほどに感じていた。周囲は結婚をしたり、子どもを育てたり、とライフステージが進んでいく。その中で、オタクを辞める努力をした方がいいのでは…?と幾度となく過った。でもその努力をすることは自分の好きなものを否定することになり、ひいては自分を否定することになるのでは?いや、でもオタクというのは趣味の一つであって、それを辞めたからといって、自分を否定するわけではないのでは?あれ?なんでそう感じるんだろう?という謎に行き着いた。

もしかしたらオタクであることは私のアイデンティティーと化しているのかもしれない、オタクであることに自分の存在意義を見出してしまっているのかもしれない、と思い始めたのだ。



これを考え続けた結果、恥ずかしい想いをしても、嫌な想いをしても、自分がオタクで在り続けたい一つの理由を見つけた。

それは自分が心の奥底にしまっていた本当の欲求だった。本音よりももっと深いところにあるその欲求の存在と、自分のこれまでの行動が結びついた時、これまで自分がオタクであることに対して抱いていた靄が晴れたような気がした。そしてオタクを辞められない自分を肯定してあげることができた。

ちなみに私のオタクで在り続けたい理由というのは、リアコと呼ばれるものでもなければ、推しの容姿や人間性、作品が好きだからというものでもない。もちろん容姿や人間性、作品好きであることも推しを推す上では大切な要素である。ただ私は自分の成長や置かれた環境に応じて、推しが変化している。だからこそ表面的な気持ちだけではなく、自分の奥底に眠る気持ちの存在を疑ったのだ。
とはいえ、自分がオタクで在り続けたい理由なんぞに辿り着くまでには相当かかったし、今自分が納得している理由以外のものを求めていた時期だってもちろんある。でもそういういろんな道を経験したからこそ、自分が生きる上でも大切にすべき真の欲求に気付くことができた。そして私はその欲求を実現するために一歩踏み出すことにした。



オタクの皆さん、どうかオタクであることを悲観しないでください。大人になったらオタクであることを隠さないといけない、恥ずかしい、なんて思わないでください。
そしてオタクではないけど、周囲との違いに悩んだり、今の自分を認められないと悩む方も、きっとこの連載を読むことで自分の真の欲求の見つけ方の参考になるはず。

「オタクがやめられない自分は可哀想なのかもしれない」と思っていた私がオタクである自分を認められたあの日まで。




おけい

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