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オタクである自分を認められたあの日まで #9

#9 番外編 お揃いだからって推しになりたいわけじゃないけど

冒頭に。日頃平凡な会社員をしている私なのですが、ここ2週間平凡な会社員には荷が重すぎるような仕事が舞い込み、完全にキャパオーバーを起こしています。ちゃんと定期更新ができておらず、本当にごめんなさい。松村北斗の美しい顔に免じてお許しを。

今日はそんな松村北斗くんの言葉から感じたお話を。


毎週金曜日22:00。SixTONESのYouTubeが更新される時間だ。YouTubeの内容に注目が集まることはもちろん、SixTONESのYouTubeで注目される要素の一つにメンバーの私服がある。SixTONESのファンになりたての頃、この私服への注目度にえらく驚いた。というのも、YouTubeが公開された途端、映像の中でメンバーが着ている服が瞬時に特定され、気付けばSOLD OUT。一瞬でも乗り遅れたら手に入らなくなる。いろんな界隈に顔を出してきたが、ここまでの注目度は経験したことがない。(あのファッションリーダーG-DRAGONでさえ。価格が半端じゃないということもあるが。)
推しが着ている服と同じものを着たい、推しがつけているアクセサリーと同じものをつけたい、という欲求を持つファンは多いと思う。その他にも推しが好きな本を読みたい、映画を見たいと思うこともある。こういった行為が他のファンに対して、「自分は●●のファンだ」というアピールのためだったり、カップルがペアのものを持つように好きな人とお揃いのものを身に付けたいという人も多いが、それだけではないと私は思う。現に私はこの2つのどれでもない想いで、松村北斗とお揃いの服を持ち、靴を持っている。


このように、ファンがお揃いのものを身に付けたいと考えていることは本人たちにもどこかで伝わったようで、松村北斗はある媒体で下記のような趣旨の話をしている。

SixTONESのファンの人はメンバーになりたいんだなと思う時がある。好きなメンバーの服の趣向や趣味を読み取って、自分の服や行動に取り入れる。「もし本人になれるならなりたい?」って聞かれたら「なりたい!」っていう人が多いと思う。(要約)

この文章を読んだ時、そんな風に捉えてくれているんだ、と少し驚いたことを覚えている。言葉にするのが難しいのだが、ファンのことをよく理解しているというか、ファンのことをよく見て、よく考えてくれていると。それでいて、きっと彼自身もそういう経験があるのではないかと思った。

じゃあ自分は推しになりたいのか?松村北斗になりたいのか?そうであってそうでない、というのが正直なところだと思う。
なりたいというわけではないし、第一なれるはずもない存在だから好きだという気持ちを抱いている側面もある。

じゃあなぜなのか?
なぜ煮え切らない「そうであってそうでない」なのか

この想いの裏にあるのは「推しが見ている世界を少しでも感じたい」という感情だと私は自分を通じて認識している。このことを認識したのは、BIGBANGを好きになった時である。それまではどちらかというと恋心だったし、「●●とお揃い〜!」というシンプルな事実に喜び、満足していた。しかしBIGBANGを好きになって、G-DRAGONみたいになりたいと、いろんなスタイルを真似することで、自分の日常に推しが滲み出してくる感覚があったのだ。
音楽を聴く、動画を見る、など推しを摂取する行為は意図的にやっている。その行為をするために頭の中も切り替えられ、目的を持って、アクションを起こしていることが多い。
だがどうだろう?仕事でキーボードを叩いている時に、ふと目に入った指輪が推しとお揃いのものだったら。自分が歩いている時に推しの香りがしたら。現実から、スッと推しの世界に引き戻してくれる。日常馴染みしていながら、気分が良い時はもっと気分が良くなる。気分が落ち込んでいる時は気分をあげてくれる。推しを感じるふとしたきっかけがあることで、感情が動き、なんてことない日常のスパイスになる。

推しを感じるその先にあると思うこと。

それは「推しが見ている世界を知りたい」という好奇心なんじゃないかと私は思う。この服を良いと思った理由、この本を良いと思った理由、この香りを好きだと思った理由。推しがそのモノを身に付け、そのモノを好きだという理由が知りたくなるのだ。“推しが”という主語がつくだけで、些細な行動にも理由を見出したくなる。推しの頭の中をのぞき、感性を共有したくなる。この服を着たらどんな気持ちになるんだろう?この本を読んだら何を感じるんだろう?そんなことを考えながら、自分も体験してみる。推しの追体験だ。推しが答えとなる理由を教えてくれる時もあれば、教えてくれない時もある。答えがわかる時は同じ気持ちになることはもちろん、違う気持ちになっても不思議と嬉しい。自分と違う感情を推しが抱いたということは、その存在がリアリティーを帯びるからだ。生きているんだ、と思う。自分と同じ気持ちにならなかったのは、推しのこれまでの人生において、何か影響したものがあったのではないか…なんて。答えがわからない時も自分が抱いた気持ちをもとに想いを馳せることが楽しい。わからないからこそ、いろんな想像が膨らむものである。


“推し”という人物像、それはあくまで推しが推しとして存在する時の人物像であり、実際にどんな人かなんてことはわからない。私が見ている推しはメディアによって作られたもの、あるいはメディアの中に存在するものである。でもプライベートで推しの意思で買った服や選んだ本は“推し”という仮面を外した素の一人の人間の気配を感じる。だからこそ推しの視界を見ることができる眼鏡をかけて(=同じ体験をして)、推しが見ている世界を見てみたいのだ。推しになりたいわけじゃないけど、見たいのだ。一人の人間として生きる推しが何を良いと思うのか、何を好きだと思うのか、何に感情を揺さぶられるのか、それを知りたい。それを知って、推しが遠いけど、自分と同じ世界に生きている人だと感じるのが楽しいのだ。


アイドルに限らず、表舞台に立って仕事をする人は“他者から見られたい自分の姿”と“自分が認識している自分の姿”が一人の中に共存していると思う。ブランディングやマネジメントという言葉で表現されることも多いが、世間から自分はこういう人間だと思われたいという自分がある一方で、実際の素の自分はそこから乖離しており、ふとした瞬間に垣間見えてしまうということもあると思う。もちろん完璧に実際の素の自分を隠し、なりきっている人もいる。私の過去の推しには全く仮面を外さない、どんな時でも外れないプロ意識の高い人がいた。でもここ最近は素の姿が垣間見える方が、見せていく方が人々から共感を得て、人気を得やすい。そしてファンである消費者も共感できる何かを探している。

「自分が直接関わることのできない相手」に対し、自分の好きなように共感できることを求めている。そんな存在を支えに過ごす日常において、”お揃い”というのはいちばん近くに推しを感じられる大切なアイテムなのだと思う。


ちなみに私はいつも推しに香水を聞くようにしている。バンギャ時代の推しにも、K-POP時代の推しにも、接触イベントの度に聞いていた。だから我が家にある香水はすべて推しに教えてもらったものである。香りというのはその人の好みをいちばん示すものだと思っている。そして、ナチュラルに日常に入ってくる。調子が良い時は特に気にしないが、調子が悪い時、「ああ、この香り…」と意識するだけで、取り戻せるものがあるように思う。
だから私は毎日中村倫也と同じと言われている香水を身に付けて、社会という戦場に行くのだ。




おけい

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