『青春ヘラvol.3』日本最速レビュー

大阪大学感傷マゾ研究会発行『青春ヘラvol.3』が、2022/05/29に開催された「第34回文学フリマ東京」にて発行された。

そこで本noteで簡単なレビューを行うこととする。ただし筆者は批評・文学の方面に非常に疎く、ほとんど素人の感想に過ぎないことをはじめに述べておく。

さて、本書は『青春ヘラ』という題名の通り、「青春」を送れなかったことに対する悔恨や落ち込み(=ヘラる)が、会誌の大きなキーワードとなっている。が、当事者がそうした悔しさや落ち込みを直接的に述べる論考は少ない。むしろ、当事者の置かれている状況をメタ的に分析したものが目立つ。

Cと呼ばれる大学生「『青春の全体主義』、青春と制服」では、竹馬春風氏の「青春の全体主義」概念を援用しながら、近年のSNSの流行や青春的広告の影響で、現代の若者が如何に「青春」という表象に苦しめられているかが述べられ、中でも制服の重要性が指摘されている。同様に、早大留年サークル「一生勉強は一生青春なのか」では、「なぜ人は幾つになっても学生時代に拘り続けるのでしょうか」という問いを立て、大学が大衆化した1970年前後以降の若者論の歴史を辿る。そして近年は「一生モラトリアム」という考えが定着し、そのことが逆説的に学生時代の特権化を生んでいると指摘する。

上記の2本は現代の社会的状況と大学生のあり方を絡めたものであるが、べっこう飴大魔神イキリ大学生を叩こう!」は自己の思考を徹底してアイロニカルに描き出している。関西弁でそのまま話しているかのような文体で、面白可笑しくイキり大学生を茶化していくのだが、それと同時に、自分自身をもメタ認知し「イキる大学生を叩いてイキる自分」も「等しくきしょい」と茶化していく。ぺしみ「レンタル彼女体験記」も単なる体験記の枠に収まらないものとなっている。普通に楽しめば良いものを、デートが進むにつれ、どんどんメタ認知が進んでいく。デートの進行と自意識が交互に描かれ、徐々に喪失感と虚無感を募らせていく様子がうかがえる。

このような「青春」をキーワードとした現在進行系の自意識(=メタ認知)と、自意識へのメタ認知(=メタ・メタ認知)こそが、『青春ヘラ』の面白いところであると思う。その意味で同じ「メンヘラ」的心性を扱っている「サークルクラッシュ同好会」の会誌と比較するとはまったく異なる印象を受ける。「サー同」にあるような、ヒリヒリ/ドロドロとしたストレートな感情やそこへの冷静な分析は、『青春ヘラ』では見られない。

そんなサー同(現「サークルクラッシュ」研究所)代表も『青春ヘラvol.3』に寄稿している。ホリィ・セン「異常性癖としてのメサイア・コンプレックス」では、自分自身のメサイア・コンプレックス的特性を赤裸々に語り、「セクシュアリティの志高性を生きる」という行き方が提示される。議論の内容が複雑であることや筆者の問題意識が特殊であるため解釈が難しいが(というかほとんど理解できていない)、『青春ヘラvol.3』においてかなり異質かつ重要な文章であることには変わりない。

同様に、茂木響平「『虚構でない青春』としての『異常な青春』ー大学の青春としての『変なサークル』の可能性ー」も少し浮いているいるようにみえる。ここでは筆者である茂木(上智大学OB)の学生時代の経験を通し、理想の青春とは異なるオルタナティブな青春像が提示されている。筆者が意図しているかはわからないが、ある意味で「感マゾ研というサークル活動自体が青春である」という主張とになってしまっている。これは、青春ヘラへのよくある批判「君たちは『青春に疎外されている』と言うが、君たちは目下青春しているじゃないか」という主張を彷彿とさせるが、こうした言説が彼らの特効薬になることはない。余談だが、茂木氏の文章はサークル文化研究という側面では非常に興味深い論考となっており、特に付記「『変なサークル』の突然変異としての感傷マゾ研」は一読の価値がある。

少し話がそれたが、以上のような自己を起点とした当事者分析的な文章以外には、批評的な文章も多く掲載されている。私は批評という営みは縁遠く、まったく理解していないが、その中で紅茶泡海苔「青春ヘラと2020年代の批評ラインーそれを「批評」と呼ぶ理由」は大変参考になった。タイトルのとおり、青春ヘラが「批評」足り得る理由について述べられており、(本当に「青春ヘラ」が批評といえるのかどうかはさておき)、批評っぽい論考との架け橋になっている。

「青春ヘラ」「感傷マゾ」という概念そのものを点検するものは、紅茶氏のもの以外では枯葉「異常性愛から見る感傷マゾ的思考」柿内午後「マゾヒズムから見た感傷マゾ」喫水「断章 感傷マゾとメランコリーの時間論」、舞風つむじ「負けヒロインオタクが感傷マゾをちょっとだけ理解した話」があり、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」を基軸にした作品分析を行った論考には、はっぱ「SF-虚構と現実の接続」きゃくの「見られることの拒絶ー『この恋と、その未来。』の感傷マゾ的読解」「『ボヴァリー夫人』における主人公エマの創作観」がある。さらに小説として竹馬春風「徹李の部屋」もある。今回はテーマが「虚構と異常」であるため、そうした内容のものが多い。ただ、これらは私の手に余るし(そろそろ書くのが面倒になってきた)ので紹介は避けたいと思う。

このように、多くの人がメンヘラ/マゾヒズムについて自由に語っている一方で、アカデミック分野における長年の研究成果からコメントを寄せているのが、巻末インタビューの小西真理子「マゾヒズムと「異常」について」である。(マゾヒストが苦痛を快楽に変換するという言説を)「『事実として発言することは、暴力研究を長年行ってきた立場からすると、実はとてもセンシティブなことであると言わざるを得ません」という指摘は、『青春ヘラvol.3』全体に厚みをもたせるものとなっている。

事実、緊縛シンポにおける学術的問題/倫理的問題への批判は記憶に新しい。これは京都大学主催シンポジウム「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」にて、応用哲学者によるサド/マゾ当事者への加害/利用が行われたことへの批判である。

詳しい解説は、河原梓水先生のnote臨床哲学ニューズレター第4号(2022)の特集3、フィルカルvol.6 No.3などを参考にしたい。中でも、小西真理子(2022)「研究者による当事者加害の『その後』を考える:緊縛シンポをきっかけとした研究倫理〈再考〉の断片」臨床哲学ニューズレター 4 85-96.は、今回のインタビュー記事とあわせて読むと勉強になるだろう。

私自身、大学院での専門が科学哲学であり、応用哲学と呼ばれる分野に非常に近いところにいる。応用哲学では、一般的な哲学的議論の外側の存在に存在する事象にも哲学を積極的に「応用」していくが、その際に当事者の存在を蔑ろにしてはならない。

哲学は、多くの知を提供する権威をもった「ツール」や「リソース」として個々の問題に「適用」されがちであり、そこにおいて哲学(者)は、応用される事象や人びとよりも多くの「現実についての知」をすでにもっているかの如く振る舞い、そうした事象や人の生を哲学の問題を解くための格好の一事例として「利用」しがちではないでしょうか。そこでは、当該の事象や人びとから「学ぶ」ことが蔑ろにされており、ひいては偽りの言説を生産してしまうことも起こりうると考えます。

小西真理子(2022)「『応用』することの倫理――緊縛シンポ、ブルーフィルム、ジェンダー」 の特集にあたって」臨床哲学ニューズレター 4 ,p.55.

もちろんこれがそのまま『青春ヘラvol.3』への批判となるとは、私も考えていない。しかし、まったく無関係でもないことも確かだろう。マゾヒズムというセンシティブな対象を扱う『青春ヘラ』において議論全体に厚みを持たせるという意味で、このインタビューは様々な示唆に富むものといえよう。

さて、以上で拙いレビューを終えるが、学生文化愛好家の私としては、批評っぽい(と私が感じる)論考よりも、べっこう飴大魔神/ぺしみらの文章の方が好みである。こうした文章は、やはり当事者にしかかけない。大学を卒業してしまうと、どうしても他人事のような文章になってしまう。もちろん、彼らはそのことに非常に自覚的であるようで、感マゾ研代表であるぺしみ君は「大学4年間でサークル活動は終える」と宣言している。ぺしみ君のどういう意図で、こう発言しているかは分からないが、やはり卒業してしまった後では『青春ヘラ』の魅力が損なわれるように思う。

その意味で『青春ヘラvol.3』は絶対に買うべきであると思う。この一瞬の煌きをみることができるのは、同時代に生きる今だけなのだ。

彼らを見ていると、もう私は大学生ではないな、と思う。一応、大学7年生の私であるが、青春はもう終わってしまったようだ。ときどき大学1年生に戻りたいなあ、と思うときがある。気がつけば私も青春ヘラになっていたのかもしれない。

現役大学生も、そして卒業生も、これから大学生になる高校生も、全人類の必読書であるといえよう。

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