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音楽よもやま話 -第5回 井上陽水- 誰も知らない夜明けが明けた時

 初めて自分のギターを持とうと決意した明確なきっかけはもう思い出せない。12歳の春に、親父にせがんで買ってもらった2万円のアコースティックギターは、今では実家のクローゼットの中で眠っている。弾かれることよりも先に、その錆びついたダダリオのブロンズ弦を変えてくれと寝言を呟いている。でも、実家に帰る度、僕は弦を変えるよりも先に調子はずれのAmのコードを鳴らす。それが最初に覚えた曲のコードだからだ。少しだけアルペジオを弾いてケースにしまう。


 本当はエレキギターが良かったのだけれど、親父は最初はアコギでなければならないと言った。そして、フォークソング入門の教則本も買い与えてくれた。正直に言って僕はそんな古臭い音楽には興味がなかったし弾きたくもなかったけれど、お金を出してもらった手前、文句も言えまい。オフコース?あの素晴らしい愛をもう一度?南こうせつ?スリーフィンガー奏法?僕は、パワーコードをかき鳴らしたかった。
 親父はじいちゃん家の4畳の和室で眠っている弦も張られていない、ボロボロのクラシックギターをわざわざ取り出してみせて、指のタコの名残(実際は、見当たりもしないが)を見せびらかしたりした。
「我が家にもギターの音色が響く日が来るとは」とかなんとか言って、自らの青春時代’70sと80sを懐古していたに違いない。彼は目の前の少年に、過去の自分をオーバーラップしていたのかもしれない。そして僕は目の前のかつての少年の夢と、TAB譜に並ぶ数字とギターの指板とを見比べ、それらの関係性を理解しようと努めた。


 そういうわけで、僕の音楽の原体験の一つとして、井上陽水はどうしても外せない。音楽だけでなく、その文学的表現についても色濃く影響を受けている。単に昔の音楽、というのでもない。色褪せない名曲というのでもない(もちろん名曲だらけなんだけど)。単なるアフロのサングラスのおっちゃんというわけではない。井上陽水は、単に親父との共通言語の一つであり、僕の持ちうる辞書の一つであるわけだ。現代を生き抜くうえで、僕という土壌の上で確かに息づいている音楽の一つなのだ。
 誰も知らない夜更け、イケないサイトを検索するより早く、リバーサイドホテルに出会った罪は重い。そう思いますよね?
 何はともあれ、好むと好まざるに関わらず、その音楽は僕のための音楽であった。だから「この歌知らないでしょ?」、と得意げに下手くそな「ジェラシー」を歌い出す初老に嫌気もさしたりする。それは、僕のための歌でもあるんです、と。

 「長い坂の上のフレーム」なんかを聞きながら水道橋辺りを歩いていると、そんなに悲観的になることないよな、なんて思ったりしている。今の幸せがあまりにも幸せ然としてたゆたっているから、バランスをとるように意味もない悲しみを探してみたりするのかな、って思ったり。あるんです。毎日何事もないように日々が過ぎていって、本当にこれでいいのだろうか?とガードレールに腰かける夜が。未来を考える時間が夜の帳に用意されている。それは、誰にも知られることのない真夜中である。
人生が二度あれば」と背中の丸くなった両親のことを想ってみたり。あるでしょう? いくら僕らが彼らの子どもだからといって、彼らは彼らのための人生をいたずらに僕らのために消費する必要性は一体どこまであったのだろうかって。
請求書やらチラシの束やらに埋もれながら、「夢の中へ」行ってみたいと思うし、そこでずっと踊っていたいと心から願ったりもする。空回りな人生において、僕らが何のために生きりゃいいのか、その思索的かつ哲学的な問いは請求書の紙面に並ぶ数字の羅列として暗号化されているわけではない。
 井上陽水の淡く艶のある高音が時々僕を慰める。今夜、僕がダンスをうまく踊れないとしても、それさえも歌にして無情な仕打ちから身を挺して守ってくれる。僕の人生を解説するナレーターのように、歩みを止まらせたり、少し振り返らせたりする。

 僕は井上陽水を聞いていると、時々こう思う。楽しかったことや嬉しかったことは時間が経ってしまうと、一体どうして哀しいことと遜色ないくらい色褪せてしまうのだろう? それなのに、哀しみはどうしていつまでもいつまでも、生まれた時のその鈍い灰色のまま、太陽の光を反射し続けるのだろう? そして、目が痛いと言っているのに一体いつまでそれを見つめ続けなけれならないんだろう? 僕らだけが知っていて、他の誰も知らない夜明けが明けた時、眩しい太陽の光を反射するのは、どうしてそういう哀しみだけだったりするのだろう? 
 
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 「とまどうペリカン」を聞きながらビールを4本目を飲み終えたところで、僕は今この文章を書いている。

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