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2020/8/8の日記~キャンセル・帰省フライト、レプリカたちの夜、不思議な世界~

9時間前にキャンセルした帰省のフライト予約画面を閉じて、ホームの電光掲示板を見るともうすぐ電車が到着するようだった。ここは都営地下鉄のとある線の端の町。やがて線路のずっと奥の方から6両の電車がやってきた。線路は続くよどこまでも、なんて言うけれど僕らはそうやって線路が途切れる地点の想像を放棄する。誰も知らないのだ。線路の端なんて。先日、御茶ノ水の駅前書店の販促コーナーで買った文庫本だけを片手に、その青い電車に乗り込んだ。著・一條次郎、『レプリカたちの夜』 煙を吐く工場を抱くシロクマを描いた表紙に魅せられて衝動買いしたのだ。

車内の乗車率は5%もない。純粋に読書を楽しむためだけに座り心地のよさそうな座席を探す。やはり長い座席の端っこの席に腰かける。
感染防止対策のために開いた窓から蝉の鳴き声が聞こえてくるので、ノイズキャンセリングのイヤホンを耳に挿しこみ、『ナイトミュージアム』のサウンドトラックを再生する。これから読む物語は不思議な話だからだ。なんとなくそれにふさわしいのはやはり、博物館の展示物が夜な夜な命を宿して動き出す映画のサントラなんじゃないかと思って。


たとえばの話をすると、だ。
たとえば、大人になって脳の容量の大部分を仕事やら請求書やら夜の献立に圧迫された僕らが、不思議な世界と呼ばれるものにアクセスできるとしたら、そこには決まって重要なファクターが用意されているはずだ。それは何気ないものだったり、とにかく怪しい雰囲気のものだったり。トンネルをくぐればそこは八百万の神々のための温泉街であるかもしれないし、はたまた連日連夜頭を悩ます奇妙な夢かもしれない。ガタイの良い黒人が赤い薬、青い薬の選択を迫ってくるかもしれない。

「青い薬を飲めば、話は終わる。ベッドで目覚め、元の暮らしが待っている。赤い薬を飲めば、不思議な国のウサギの穴の奥底へ降りて行ける」


つまり、満員電車に揺られる平日とは違った雰囲気を纏った、休日の青色の電車に、僕はある種の期待を寄せているのだ。地下鉄と言いつつ地上にホームがある駅から、東京都心の地下のトンネルを通ればやがてどこかへたどり着けるかもしれない。終点についたなら、ほれ見ろ、線路などどこまでもは続かないんだと皮肉を言うかもしれない。


とは言え、僕の今回電車に乗った目的は純粋に「読書を楽しむ」ことだ。一体どれだけの人間が純粋に読書を楽しむためだけに電車を利用するというのだろう? スマホゲームをする人、居眠りする人、そう多くの人が移動時間の暇つぶしとしてそんなふうにぼんやりと過ごす。だが休日の僕は違う。移動の副次的な行為として読書があるのではなく、移動こそ読書の副次的な行為なのだ。都心に近づくにつれ車内の乗車率は上昇し、都心から離れるにつれ乗車率は下降して車内は閑散としていった。

絶滅したはずのシロクマが器用にかき氷を食べたり、ドッペルゲンガーの正体に頭を悩ませたり、夏のアイスクリームのように溶けだす人間であったり、などなどやはり不思議な物語だ。純粋な読書行為は僕をこことは違う世界へと没入させてくれる。物語のテーマをとおして、「この現実世界の不確かさ」と「この私という自我の不確かさ」のニアリーイコール関係について考えさせられる。

気が付くと電車は終点に止まっていた。都心から遠く離れた街。出発地点と同じくらいの規模で、同じぐらいの数の人々が行き交っている。そして線路は奥の方までずっと続いている。ほれ見ろ、線路は続くんだよどこまでも! 頭の中で声がした。そして自らの口からも同じ言葉がぼそぼそと発せられていた。
ありきたりなトイレで小便をし、氷点下5度の自販機で冷やされた三ツ矢サイダーを買い再び地下鉄に乗り込む。砂糖入りの炭酸水はいったい氷点下何度で凍るのだろう? 純水ではないものの凝固点はどうだったろう? 考えるのを諦めて純粋な読書行為に耽る。
イヤホンから流れる『ナイトミュージアム』のサントラは『アベンジャーズ』から『フォレストガンプ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を経由していつの間にかショパンのピアノ協奏曲へと変化していた。集中して読書に耽ればそれらは純粋な背景音楽となる。


そしていつのまにか帰ってきていた。
自宅の最寄りの駅前はいつも通りの休日と言った感じだった。美容室の前にはブタの蚊遣器が線香の煙を吐き出している。ケータイショップの前では洗剤やら日用品が長机の上に並べられ、それをダシに店員がセールをしている。アルミホイルがジェンガみたいに積み重なっている。その積み重ね自体に安定性以上の意味はないだろう。ジェンガと喩えたなら安定の継続性すら疑わしい。昼食にマクドナルドでもと思ったが、30人は行列を成していて諦める。僕はおそらく、生きていくうちのなかで8番目くらいに長蛇の列に並ぶことが好きではない。強迫観念に似た蝉の鳴き声がとにかくうるさい。真夏のいつもの駅前といった感じだ。

なるほど。どうやら今年の夏は、僕らは何処にも行けそうにない。青色の電車を選んだせいかもしれない。

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