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2018/1/1の日記~13年間、ストレート、ステーションワゴン~

太陽がその年最後の仕事を済ませ、西の地平線へと沈んでいる。年に数回しか会えない実家の愛犬の散歩を買って出た僕は、尻尾を振るそのダックスフントを連れて堤防を歩いた。相も変わらず短い脚で一生懸命に歩き、時に疲れたといってその場に突然座り込むその小さい毛むくじゃらに翻弄されながらも、ぎゅうっとリードを握り締めた。なんだか変わらないとは言っても確実に眉毛に白髪は混じったし、生命の躍動を具現化したようなあの軽快な走りもあまり見せてくれない。彼女は半年後には13歳を迎える老犬で、その逃れようもない事実が少し、僕を物悲しくさせていた。
河川敷へと下っていくと、親子がドローンを飛ばし、また高架下では橋台に向かって高校生がバレーボールを打ち込み、自主練習に励んでいるのが見える。それぞれがそれぞれの大晦日の夕暮れを過ごしていた。僕らは真後ろに向かって一直線に伸びる影を背負いながら、散歩を続けた。やがて少し盛り上がった芝生のてっぺんに、幾世代にもわたる野球少年たちが、キャッチャーミットへ向けてストレートを投げ込むために大きく踏み込んだ址を、僕らは発見する。強烈な西日の光が届かないほどに刻まれた、深い址だった。そして、かつて僕らも同じように河川敷で汗を流すような少年だったことを思い出し、抱きかかえた愛犬も今よりもう少し小さく、今よりもっと幼かったことを思い出した。13年間の重みが腕の中で時折鼻で鳴く。

先日同窓会が開かれて、昔話と近況を肴に酒を飲みあった。わずか60平米ほどの教室に分類され尊い時間を共有した我々も、今では立派に社会人を全うしている者、大学で勉学に励む者などなど、それぞれがまごうことなき自分だけの時間軸を手に入れていた。そういった事実は高校当時と変わらない振る舞いを見せることが、良くも悪くも滑稽に見えてしまうほどの現実を突きつけてくる。時間の功罪の一例だ。否が応にも移ろいでいく環境に適応していく柔軟さと、ぶれない芯を持つ剛健さが結局のところ大事だって言う話は耳にたこが出来るくらい聞き飽きたと重々承知だが、やっぱりそうなのだと強く思う。

オレンジ色に輝く完璧な球体が地平線を接線とするその前に河川敷から立ち去る。
信号待ちをするステーションワゴンに乗る小さい子供が、助手席の母親の方まで身を乗り出して、僕の抱きかかえた愛おしい犬を指差し(ねぇ!ママ!パパ!ワンちゃんだ!と)笑顔を見せる。両親は幼子をたしなめながらも、同じように笑い顔を向ける。ほら、君は年老いてなお見知らぬ誰かをあんなにも笑顔にしているじゃないか。年月に支配されない、醜く歪んだりしないその力がとても誇らしい。僕もとりあえずのところ、笑顔で新しい年を迎えている。迫り来る環境の変化に身悶えしながら。

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