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ひそひそ昔話-その6 不必要に死の影を背負うということ-

正月、ばあちゃんを墓参りに連れて行った。その前の夜、街で同級生と昔話に花を咲かせているとき、親父から電話があった。「明日、ばあちゃんを墓参りに連れて行ってくれ」と。特に用事もなかったので二つ返事で了承した。ばあちゃんは足腰が悪く、もうこういう親戚一同が会する正月の時くらいしか墓参りに行けないのだ。
ばあちゃんの家から少し歩いた先に墓地がある。僕は、車道側に立ち、ばあちゃんの隣で一歩ずつゆっくりと歩いた。そしてその一方で14才の愛犬を散歩させている。時折、名前の知らない近所の人がばあちゃんに話かける。〇〇さんとこのばあさんはデイサービスに入ったとか、△△さんは農業を辞めて土地を売りに出したとか、そういった話だ。その間、僕と愛犬は見つめ合いながら、話が終わるのを待つ。
もちろんばあちゃんは隣にいる僕のことも紹介する。
「東京で働いちょる孫が帰って来ちょるとですよ」と。
「へぇ、東京は大変やろうねぇ」と近所のおじさんは僕を見る。
「えぇまぁ」と僕。
ばぁちゃんもういいかい、はよ行こうや、と僕は手を引く。「おおきにね」とばあちゃんは近所のおじさんに挨拶をした。

「久しぶりやねぇ、長ぉ来れんかった。ごめんねぇ」と、ばあちゃんはお供えの花を取り換え、お線香に火を付け香炉にそれを立てた。その日は風が強くてなかなか火がつきづらかった。
墓誌に、名前が書いてある。ばあちゃんはそこに刻まれた名前を何度か呼んだ。とても優しい声で呼んだ。厳格なひいじいちゃんの名前から一文字受け継いだ名前。僕がばあちゃんの家の二階に居候して浪人生活をしていたとき、よく階段に気をつけろとばあちゃんは注意していた。その墓誌に刻まれた名前の持ち主はその階段から転げ落ちてしまったからだ。ばあちゃんの最初の子どもだ。要は彼女の“長男”のことだ。僕の親父の2つ年上の男の子。夭逝してしまった。もう60年以上前の話。
問題は、その子の命日が僕の生まれた日と同じだ、ということである。
そんなの偶然の一致じゃないかと言われてしまえばそれまでだ。だがしかし、とある日に死と生が表裏一体となったというその事実は、奇妙にも少年時代の僕を少なからずかき乱した。学校でそんなことを話した時には、クラスメイトに「生まれ変わりじゃん」と囃し立てられる。生きていたら45才のおっさんの生まれ変わり~!などと。顔も知らないおじさんの生まれ変わりという響きは、僕自身のアイデンティティを小さく揺さぶった。“生まれ変わりってなにさ、俺は代替品ってことか?” 
断っておくが、誰も意図して僕のアイデンティティを揺さぶろうとしていない。僕が自分自身で揺れているだけだった。うむ。まぁそれは成長期にはよくある話だ。
ただ、僕が不必要に死の影を背負っていただけのことだ


ばあちゃんは時折「かあちゃんの飯食うか?」と電話してくる。そのたび僕は「ばあちゃんは俺のかあちゃんじゃなくてばあちゃんやろ」と笑う。ばあちゃんも笑う。断っておくが、彼女は僕を、幼くして亡くした息子に重ねているわけではない。本当の、自分が腹を痛めて生んだ子どものようにかわいくおもってしまう、というだけの話だ。


冬の寒さに、老犬は震えていた。お前には毛皮があるじゃないか、と思いつつ僕は彼女を抱きかかえ、その背中に頬を寄せた。とても暖かかった。愛犬に頬を寄せ、外柵に腰掛けながら、墓を掃除するばあちゃんをずっと見つめていた。いつのまにか随分と痩せて、随分と小さくなってしまったようだった。腕の中の愛犬が鳴く。墓誌にはいろんな名前が刻まれている。僕の知らない親戚の名前だ。

僕は、いつか、いつか死の影をほんとうに背負わなくちゃならないときがくるのかもしれない。と、哀しい気持ちになった。その時、前を向いて進めるか自信がない。ほんとうに、全然自信がない。大人になるということは、こういうことなのか、と現実は墓石の硬度を以て僕の頭を殴る。



追記
とても幼い頃、歯が生えそろい始めた頃、僕は階段から転げ落ちた。意図して落ちた。もしこの階段から転げ降りたらどのくらい痛いのだろう?と思って。なにかの舞台の“階段落ち”を再現したかったのかもしれない。とにかく、何度か鈍い音を立てて僕は一階にたどり着き、そのために何本かの歯を犠牲にした。その音に驚いた母と姉がリビングから飛んできたとこまで覚えている。
これに僕が不必要に背負った死の影の運命をこじつけることだって、出来ないこともない。だが、しないでおこう。絶対にしないでおこう。


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