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おろおろ映画日記-第2回 タイピスト-1つでも才能があれば十分だ

情報学の授業

大学1年生の情報学の授業ではなぜかタイピングの練習の時間があった。パソコン画面に表示される文章を制限時間内にタイプするっていうやつ。あるいは長文をなるだけ速く打つ。僕の隣の、クラスでも一番聡明な女の子は、ブラインドタッチの凄まじいスピードでカタカタと課題を終わらせると、颯爽と別の授業のレポート作業に取り掛かっていた。まったく、あれなんというか超クールだったな。


僕は、他人に自分の文章の出来を褒められて、少し調子に乗ったまま今でもこうやってつらつら文章を書いている。これも1つの才能なのかな、才能であれと強く願わない日はない。まぁとにかく、誰かに才能を評価してもらえるというのは気持ちの良いことである。
とはいえ、他人に才能を評価してもらえるというのは簡単なことではない。時にはその承認欲求がまったく報われず悶々とする夜を過ごす日だってあった。そんな時期に出会ったのがこの映画『タイピスト』(原題:Populaire 2012年仏)

ローズ・パンフィル

この物語は1950年代末のフランスを舞台に、タイプの早打ち以外には取り柄のないローズ(デボラ・フランソワ)が、タイプ早打ち世界大会優勝を目指して奮闘するラブコメディである。ラブコメディではあるものの、圧倒的な男性優位社会の中でどのように自分の才能を認め、ありのままでいたらいいだろうか、というのが大きいテーマのように思える。

女性にとって幸せへの近道が名誉ある男性との結婚だと称される時代。女性にとって憧れと言えば、秘書になって雇い主と結婚することときたもんだ。まあそういう時代なんだろう。なんで昔も今も女性秘書がなぜ多いのか、ちょっと調べると「女性ならではのきめ細かな対応」が求められていたり、物腰の柔らかさ、気配りの利いた対応それら女性の持ち味が活かせる職業が秘書といえるから、なんていう記事をたくさん見つける。ここら辺の認識ってジェンダー論から言えば、おおよそ誤解そのものに他ならないと思う。

それで、ヒロインであるローズの性格はというと「おっちょこちょい」「気分屋、感情的」「ガサツ」「不器用」とおおよそ上記の秘書の条件には当てはまらない女性だ。でもそういう女性はいつの時代も、どこにでもいるし、本来ならそれは性別で規定されるべきことではない。彼女自身「欠点だってある普通の女の子」であると自分を評している。ただタイプの早打ちが好きなだけのおっちょこちょいな普通の女の子なのだ。彼女は、田舎の村で修理工と結婚する道なんかを選びたくない、そういう一心でルイ・エシャール(ロマン・デュリス)の保険代理店の面接を受けたのだ。

ルイ・エシャール

では、ローズの雇い主兼タイプコーチであるルイ・エシャールにとって、ローズは最初どう映ったのだろう。「女性秘書なら地味で控えめであるべきだ」という評価がまかり通っている時代で、対極に位置する彼女がいわゆる「おもしれー女」と映ったんだろうか。まぁそれもあるだろう。彼自身が本質的に「欠点」を持った「負け犬」であり、本能的にローズも「欠点」のある女性として親近感が湧いたのかもしれない。あるいは、そもそも彼自身この時代の男性としては「変わった男」なのだという見方もできる。エプロンをつけて料理もするし、掃除洗濯もする、マッサージも心得ていて、誕生日ケーキだって作れる。この時代ではすすんでいる男性である。


またこれは1つ、重要な人物設定としては「負け犬」が挙げられる。彼はかつてはボクサーではあったものの、せいぜい銀賞のトロフィーを取ることが関の山、1位になれなかった男なのだ。愛していた幼馴染も戦争に行く自分には彼女を幸せには出来ないだろうと諦め(幼馴染っから手を引いたのだ)、挙句にアメリカ人の親友に取られる。いわゆる永遠の二番手として、上位男性社会の中でも劣等な立場にある。クリスマスでの家族との食事のシーンでは、父親には「ビジネスの才能がない」と評される始末である。また、全仏大会に優勝したローズがジャピー社と契約した時には嫉妬からなのか、自分が必要とされなくなったと嘆いたのか身を引いてしまうような男である。

一方でまた彼は「優しい」人間でもある。ローズの才能を見込み、彼女が正当に評価されるようにコーチを買って出、誕生日にはDIYしたタイプ打ちの補助道具をプレゼントするような男なのだ。最初、ローズが試合で勝ちぬくかを親友のボブと賭けているシーンを見るに、ルイ、彼もまた男性社会側の人間であるためローズを自分の所有物として扱っているのだろうかと思っていた。自分の所有物(秘書)が結果を残すことで自分自身の評価も上がるのである。後半、タイピスト早打ちのフランスチャンピオンとなったローズを商品・所有物扱いするジャピー社の男もまさにそういう役回りだ(女性のステータスを高めるタイプ早打ち大会でさえ、その審査員=女性を評価する者は男性がほとんどだ)。
しかし、この考えへの至りはおそらくミスリードであった。負け犬で二番手で劣等な扱いを受けているルイが、似た者同士であるローズの躍進のおかげで、自分らしさと彼女への愛を認めることが出来た、というのが物語の流れの掴み方として正しい。
彼は戦争で戦友を亡くした経験があり、人助けに幸せを見出してた。ローズを気にかけ、彼女の指導を買って出たのも、不当な扱いを受けている不器用な彼女をなんとか助けてあげたいという彼本来の優しい気持ちが大きかったからなのかもしれない。全仏大会でローズをけしかけたのも、世界大会前にコーチを離れた(彼女から手を引いた)のも、本当に彼女のことを思っての行動だったのである。またも彼は2番手に甘んじたのである。

愛の言葉

ルイ「手を引くのが速すぎる。そこが君の欠点だ」
ローズ「あなたの欠点よ」
ルイ「僕は人の役にたつことだけが幸せだと思ってきた。君にも言った。僕が必要だと。でも今悟ったよ。僕が君を必要としてたんだ。君こそ僕の幸せだ。愛してる」
ローズ「最後のアドバイスは何?」
ルイ「叩き潰せ」

世界大会最終ラウンド前でルイがローズへかけた愛の言葉、すごく素敵だと思う。誰かが誰かを認めるとき、それは常に対等でなくてはならない。そしてそこには愛がある。この男性優位社会において、ローズの才能を認めるのは決してジャピー社の御曹司なんかではダメだったのである。彼女と対等の存在であるルイでなくてはだめなのだ。

そもそも結構序盤からローズ自身はルイの本質が「優しさ」であると見抜いている。ルイの幼馴染であるマリーに好きな男性のタイプを聞かれるシーンでこう答えている。


「対等に扱ってくれる」
「年上でもいいけど、若いふりをしない人」
「積極的なこだわりがあるけど、自信満々でもない」
「タバコは吸っててもいいけど控えてほしいな」
「悩んでいる方がかわいい」


これは、まさにルイの性格そのものなのだ。

最終的にきっかり二人は結ばれるが、やはりそうなったのも二人がお互いをしっかり対等に認め合ったというのが大きい。

君の才能はタイプだけかもしれない。だが一つでも才能があれば十分だ

余談1 スポ根


ラブコメディが表のジャンルなら、裏にあるのはスポ根モノだ。恋人(になろうかならまいか)という関係性とコーチと生徒という関係性を表裏一体で描いているというわけだ。タイプを早打ちするなら身体づくりが重要だと、ランニングやマッサージを事欠かないように指導しているのも面白い。タイプの早打ちの試合形式をラウンド性にしてボクシング的に見せるというのも実に効果的で、そこには元ボクサーであるルイの無念をローズが清算するという構図も見える。
そもそも、フランスのドキュメンタリー番組でタイプライターの早打ち大会を知ったレジス・ロワンサル監督が「スポーツにまつわるロマンティック・コメディ」を撮ろうと思い製作したのが、この映画なのだ。
最終的に、優勝発表もそっちのけで壇上でキスするのだが、自分を認め、互いの才能や本質を理解し、愛し合う二人にとって勝負事なんてとりあえずどうだっていいわけだ。

また第二次世界大戦でアメリカに敗北したフランスが、タイプ早打ち大会でその雪辱を果たすという構図もある。その締め言葉に「アメリカ人はビジネスを、フランス人は愛を」はニクイね。

余談2 カルチャー


50年、60年代のフランスのカルチャーがとてもかわいい。これもこの映画の見どころである。ポップでおしゃれなファッションや家具や小道具、練習用タイプと合わせたネイル、ころころ色移り変わるワンピース、色とりどりの濃厚なネオンに照らされる上品で官能的なセックス。ローズ役デボラのポップで健気で、感情的な演技も最高にかわいい。

余談3「笑顔は愛されている証拠よ」


ドビュッシーのベルガマスク組曲第三曲「月の光」を弾いているマリーを、ルイが訪れるシーン。ここはいわば、ルイが1)マリーへの気持ちへの決別、2)ローズへの気持ちを認めるというシーンである。それが巡り巡って自分の欠点「手を引くのが速い」というを認める形になり、最後のローズへの愛の言葉へとつながるのだ。ドビュッシーのこの曲は「感傷的な散歩道」というタイトルで元々つけられていた。フランスの詩人ヴェルレーヌの詩「月の光」をモチーフとするこの曲は、楽しくもあり哀しくもあるそういう詩の世界を表現した曲がこの「月の光」である。そう思うと、感傷的な状態のルイが、かつて愛したマリーへの気持ちを清算し、ローズへの気持ちを認めるというシーンの暗示として効果を出していると思う。

まとめ


この映画は男性優位社会での女性の奮闘を~、などと猛々しく論じようとも思った。しかし結局のところ、誰かを対等に扱うこと、誰かの才能や本質やその他諸々を理解してあげることこそが重要なのだとわかる。これはちゃんと考えてみればごく当たり前のことで、そうあるべきなのが世間に求めることなんだよな。それって当然のことのようで、つい忘れがちになってしまうのだけれど。

ありのままの自分の姿を分かってもらいたい、自分には才能があって然るべきだしそれを誰かに認められたい。それは誰もが少しくらいは感じていることだと思う。そういう対等な人に巡り合えたら素敵なことだし、少なくとも自分はそうありたい。

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