見出し画像

価値が無いと判断した記事にコメントする筆者の気持ちを考える

以前に投稿した私の記事に対して、コメントをいただいた。

uiだのヒューリスティック、タッチポイントとか横文字使う人は針小棒大な人が多いな。銀行の業務だって、atmに置き替わったが使えない人なんて少数。「慣れれば皆使えるようになる、今はその移行期」ただそれだけ。それをこんな長い文章で書く価値あるか?

私にとって、このコメントをいただくこと自体が「意外な出来事」だった。そこで、まずは私の考えを展開しつつ、コメント者との隔たりを埋めるべく、仮説を立ててみる。

すごい長文なので、読んでもらうことは意図してないけれど、このくらいコメントに真摯に向き合っていると伝われば幸い。

背景:意外な事実に着目して仮説を出している

以前の記事を書いたのも、私がこの記事を書くのも、背景は同じ。

デザイン思考では、まず最初に「ユーザーに共感する」ことが課せられるのに、他人に共感すること自体が難しい。「筆者の気持ち」の追求は、文系の人々が人生をかけて向き合うくらいのテーマで、一朝一夕にできることではない。

そもそも難しいと認めた上で、相手の立場に身を置いて寄り添ってみたり、いろいろな可能性について思いめぐらせたりすることで、なんとか理解しようと試みている。私にできることとしてnoteに残している。

イノベーションの方法論に関する書籍「ファーストペンギンス」の序盤でも、「意外な出来事」に着目して、「何故そんなことをするのか?」の仮説をたくさん出すべしと書かれている。

「意外な出来事」になりえるものとは?…私にとって当たり前のことが、誰か他の人にとっては当たり前ではなかった出来事が挙げられる。

例えば、「慣れれば皆使えるようになる、今はその移行期」と受け入れること自体は、私にとっても当然で書くに値しない。でも、以前の記事に書いたおっちゃんは順応することに抵抗感を持っていた。その隔たりが在ることが、私にとって「意外な出来事」だったのでnoteに書いた。

別の具体例として、「長い文章で書く価値がない」と評価する記事なんて、読むのをやめてスルーするのが私にとっての当たり前だった。でも、わざわざ最後まで読んでコメントしてくる人がいる。それが私にとって「意外な出来事」だったのでnoteに書いている。←イマココ

批判コメントを批判的に読む

せっかくコメントをいただいたので、批判は批判として受け止めながらも、批判されている内容を批判的に読む。

【批判の批判】結論が当然ならば、長く書く価値がない?

もし、「結論が当たり前であれば、長く書く価値がない」というコメント者の主張がまかり通るならば、地動説をめぐるお話も無価値という命題が導けてしまう。

私の記事が面白いかは置いといて、「チ。」はけっこう面白く読めた。導かれる命題に問題がありそうなので、それを導いてしまうコメントの主張は疑わしい。

【批判の批判】表現・内容の両方がNGは本当か?

ご指摘を要素に分けると、「横文字使う人は針小棒大な人が多い」は表現に関するご指摘、「こんな長い文章で書く価値あるか?」は内容に関するご指摘になる。

表現・内容でパターン出しすると、「1.」に該当する。

  1. (表現:NG)×(内容:NG)←うわっ…私のnoteダメ過ぎ。

  2. (表現:NG)×(内容:Good)←読みにくいのが勿体ない

  3. (表現:Good)×(内容:NG)←読みやすくても価値ない

  4. (表現:Good)×(内容:Good)←批判する必要なし

表現に関して、横文字が苦手な人への配慮が足りなかったのは反省はしている。実際、この記事ではなるべく横文字を使わないよう配慮した。気持ちに余裕ある時は気を付けたい。

とは言え、2,000文字超を最後まで読んでいただいた時点で、表現としてソコソコ優れている「2.」か、我慢してでも読む気になった意味で「3.」の評価が妥当でなかろうか。

批判コメントへの批判として、批判の焦点は絞った方が良いということは言いたい。

【批判の批判】他の記事も同じ基準で批判できる?

もしかしたら、「最後まで読まずに批判するのは信念に反する」みたいな気持ちで、我慢しながら読んでくれたのかもしれない。そうだとしたら、意外と律儀深い人だなぁ。

でも、コメント者にとって価値のない記事なんて星の数ほどあるだろう。私へのコメント内容を水平展開するのであれば、数多ある価値のない記事すべてを読破して、コメントして回らねばならないことになる。流石にそれは人生の時間を無駄にしている。

そうすると、わざわざ私の記事に辿り着いて、最後まで読んで、コメントを残そうと思う要素があったと推測するのが妥当に思える。それは何だろう。

【批判の批判】noteの世界観に反している

正論で言えば、そもそも他の人のnote投稿に価値が無いと批判することは、note公式が描く世界観と反する。

駄文でも短文でも悪ふざけでも、とにかく気軽に投稿しましょう。

短い文章、下手な文章、ラクガキ...、そういったものを恐れて手をとめる必要はありません。まずは、創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す。表現力もファンも、あとから十分ついてきます。
noteの特徴、使い方、機能紹介

なぜなら、仮に表現・内容ともクソ記事であっても、世に送り出すことをnote公式が後押ししてくれているからである。

コメント者にとっての当たり前を推しはかる

正論に正論で返しても、世界は平和にならない。コメントくださった方の中にも、私とは違った当たり前があるのだろう。だから面白い。仮説を出すことを試みる。

【仮説】インターネットを有限と捉えているのかもしれない

紙媒体の本や雑誌には、紙面の制限がある。そこに価値のない記事が載っていたとしたら、読みやすく価値のある他の記事が押しやられてしまい、人目に触れる機会が奪われたことになる。

世界を有限と捉えている人からすると、意味のある記事だけを残して、他は排除したくなる気持ちには共感できる。その前提に立てば、わざわざ「価値なし」とコメントしたくもなる…のか?

インターネットが有限の制約を取っ払ったというのは、クリスアンダーソン先生が2006年ごろに「ロングテール」で書いた着想である。もう15年以上も経つ。

私の長文がどこかのクラウドストレージを圧迫して、電気代がかかり、有限な地球環境を食い潰している!という見方もできるけれど、それより先に対策すべきことの方が多いので、反論としては有効に思えない。

あなたにとって価値のない記事が在っても、あなたは何も失うものがないのだから、放っておけばよい。

【仮説】有限なのは置き場所ではなく、露出機会かもしれない

noteをはじめSNSの仕組みとして、多くの人のスキが付けばオススメとして選ばれ、他のユーザーの一等地に表示される処理になっているものは多い。

私が書いた価値のない記事が一等地に表示されるということは、他の価値ある記事が読まれるチャンスを奪っていることだと言える。

そのように捉えれば、「オススメされたから読んでやったのに、内容がつまらなかった」という気持ちにはギリギリ共感できる。

でも、その矛先は筆者ではなく、noteがオススメするアルゴリズムに向けてくれよと思う。

私は、5スキの記事も、500スキの記事も、執筆時には分け隔てなく好きに書いている。読み手・書き手という二項対立で分ければ、勝手に評価して、勝手に批判するのはいつも読み手だ。

あぁ、これってtwitterやってる人が言ってた、影響力に比例してクソリプが増えるので、スルー力が必要というだけの話か。それが嫌なら鍵かけとけという話でもある。

発信には犠牲が伴うという当たり前の結論だとしても、自分で辿り着いたことには価値あると思うので書き残している。

【仮説】読み始めの期待が高かったのかもしれない

note公式の発信では、書き手が注意すべきことも書かれていた。

・読んだひとが「だまされた」と思う書き方をしない
noteで発信を楽しむために大切なこと

もしかすると、批判コメントを下さった方は、私の記事に対して何かしらの期待を持って読み始めたのに、それが裏切られたのかもしれない。

そう解釈すれば、星の数ほどある記事の中から、私の記事にコメントすることも説明が付く。

では、どこまでの配慮が求められるのだろうか。上に挙げたnote公式の発信によると、釣りタイトルで有料記事を買わせることは避けようという話だった。

↑この範囲で配慮した上で、それでも読み手が「だまされた」と思う分には「知らんがな」と思う。それが、アドラー先生の言う「課題分離」に思える。

【仮説】気に入らない気持ちが先にあり、理由は後付けかもしれない

おそらくこの仮説が正解に近いと想像している。そうだとすると、私の記事を掘り出してコメントを付けることは説明が付く。

ただ、何が気に入らなかったのか想像してみても、コレだ!という洞察には行き着いていない。

  • 「横文字」に嫌悪感を持っていて、私の文章で傷付いたのかもしれない。

  • 通りすがりに批判してマウントとりたいのかもしれない。

  • 記事の内容が、嫌な過去の経験を踏んでいるのかもしれない。

考えた過程を書いていて、しかも結論は出ていない。この記事も「長く書く価値のない文章」と評価されるだろうか。どこか正解が知りたいような気もする一方、もうあの人のコメントは要らないような気もしている。

「文章でメシを食う」の道を開くため、サポートいただけると励みになります。それを元手にメシを食ってメシレポします。