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外食産業はデジタル弱者を締め出すのか

飲み友のおっちゃんから相談ごと受けることがあり、報酬(?)として食事をご馳走してもらっている。

内容としてはパソコン作業だったり、デジタルものの設定だったり、アナログ人間なおっちゃんにとってはハードル高い事でも、知っていれば容易なことが多い。

先日は回転寿司でご相談を受けた。久々に行ってみると、システムが導入されていて、店員と会話することなく食事が済むくらいの世界になっていた。たまには行ってみるもんだ。

「この人数ならすぐに入れる」の罠

店先に設置されたタッチパネルを操作すると、休日の夕方頃ということもあり1時間待ちだと表示されていた。

「本当に1時間待ちます?」と聞いたところ、おっちゃんは「この人数ならすぐに入れるよ」と言った。

結果としてはおっちゃんよりシステムの予想が正しく、本当に1時間かかった。おっちゃんにとって誤算だったのは、アプリ予約の人がどんどん入店するということだった。

予約アプリを知らない世界に立ってみれば「後から来た人に先を越された」という感想になるのも当然理解はできる。おっちゃんは「じゃぁその場でアプリ予約するわ!」と試みていたけれど、当然ながら1時間先しか取れない。

すいていた帰りに撮影した例のシステム

それまで店先にあった紙媒体の順番表を、デジタル技術で他の場所からも書ける/見えるようにしたと言えば納得いただけた。待合室ではなく他の場所で時間をつぶす選択肢が設けられることで、密を避けられる意味でも合理的だ。

頭では理解できても、待合室にいる人数を見て「流石に1時間もかからないだろう」というヒューリスティックが働くことや、後から来た人が先に入る違和感をぬぐうには、価値観のアップデートが必要となるだろう。

バイトが雇いにくくなった話

こんな世界に誰がしたか?と言えば、世の中の情勢と関係するのは自明であろう。近所で個人経営の飲食店をやっている別の方は、よく「バイトが雇いにくくなった」とおっしゃっている。

先の休業要請で営業が続けられなくなった間に、バイト達は仕事の場を失って路頭に迷ったので、次にバイト先を選ぶのであればリスクのある飲食店を選ばなくなったという話を聞く。

きちんと制度を知っていれば or 何とかしようと調べ尽くせば、休業中でもバイトにお金を渡せるような制度は用意されていた。とは言え、雇用主もバイトもそこまで意識が向かないケースも多かったのだろう。

バイトの確保問題に対して、各自いろいろと工夫をしている。私が副業(?)でお店を手伝っているのも、実はその応急処置である。

大手チェーンの場合は、人が少なくても成り立つシステムを作って乗り切った。それがこのシステムなんだろうなぁと思った。

アナログ人間は店に来るなということか?

↑これはおっちゃんが実際に言ったセリフ。この記事に書いたようなお話で1時間つぶせたので、退屈はしなかった。

この問いに対して、私は「YES」寄りの考えを持っている。お客さんは店を選べるのだから、店側もターゲット顧客を定めるのは公平だろう。

チェーン店のリーズナブルさは企業努力によって成し遂げられていて、システム導入による人件費削減もその一環だと思えば納得感はある。デジタルにリテラシーの高いお客さんを相手にする方がコストが低い。

今回の回転寿司店でも、デジタルを使い慣れない人は店員をつかまえて対処する選択肢が用意されているので、締め出している訳ではない。ただ、デジタルを駆使できる人の方が、家から予約できたり、流れていない寿司を発注しやすかったり、恩恵が多い。

人による手厚いサービスを求める場合は、それを推しにしている店を選ぶ選択肢もある。もちろん、人には人件費がかかるので、それなりの値段は覚悟しなければならない。

余談ながら、寿司がもっと高級になると、サービスとしては不愛想になることが「闘争としてのサービス」で研究されている。…これは別の話。

そこまでいかない程度で、人の温もり云々はセルフのガソリンスタンドの導入時にもあっただろうし、今に始まった話ではない。今でもスタッフが給油して窓を拭いてくれるガソリンスタンドは少ないながら残っている。

とは言え使いやすさは大事

私個人の見解として、選択肢としてシステム導入した店ができることは賛成。ただし、それは使いやすいものでなければ、今度は店側が淘汰されるんじゃないかと思う。

コンピューターの黎明期は、作り手も使い手も技術オタクだったため、「難しいシステムを使いこなすオレ、カッコイイ」という価値観があった。でも、それおかしいよね?と問題提議されだしたのが2000年頃。

振り切ってCUIで来店・注文すると恩恵が受けられるお店があっても面白いかもしれない。…それも別の話。

実際に回転寿司のシステムを体験してみると、操作性や表示は工夫されていて、タッチポイントとしてはストレスなかった。ただ、おっちゃんが認知的不協和を持ったのは事実だし、これが本当にベストなのか?は考え続けたい。

簡単便利の行き着く先に幸せがあるのか?

過去に思いを馳せると、洗濯機の登場時にも「洗濯板で洗うぬくもり」と言われただろうし、炊飯器の登場時にも「薪で炊く美味しさ」と言われたことは想像できる。

この記事に書いたようなシステムやロボットの接客も、いずれは操作性が良くなり、人々に受け入れられて、当たり前になる。それまでの移行期を切り取ったに過ぎないという見方もできる。

この話題がただの移行期の話だとすると、未来のどこかで移行期は終わって行き着く先があるのだろうか?…プロダクトやサービスの作り手としては興味深い問いである。

簡単便利を極限まで追求した未来、人は幸せになっているのか?

簡単便利が行き着いた先には、食事時間も惜しみたい人は食べなくても生きていけるし、睡眠時間が惜しい人は寝なくていいし、起きたくない人はずっと寝ていればいい世界が来るかもしれない。

そこに向かう1つ1つのステップに注目すると、どこを切り取っても簡単便利にはなっているけれど、行き着く先としてはディストピアということも考えられる。

おっちゃんの持つ拒絶感は、合理的ではないように見えて、どこかディストピアへの恐れが脳裏に過ぎっているのかもしれないとも思う。

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