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演繹→帰納→アブダクション→知らんけど

論理で打ち負かすなんて暴力だし、論理を求められる時点で負けている。確度とオモロさがトレードオフとなる数直線上で、「知らんけど」は非論理の右派として位置付けられる。知らんけど。

論理で打ち負かすのは暴力

以前に投稿した記事に対して「難しくて何を言ってるかよくわからん」というご意見を頂いたので、まずは私のスタンス「論理で打ち負かすのは暴力」について表明する。

私自身は論理的に考えたり書いたりできる能力を持ちたいけれど、あくまで自分の考えを磨き上げる目的で使いたい。お互い納得の上で論理をぶつけあうならまだしも、丸腰の相手を論理的に言い負かすのは紳士的でないし、論理的でなきゃ認められない状況が既に負け試合だと思っている。相手の脳の中では、直観が既に「駄目だ」と判断していて、後付けで論理を担ぎ出しているかもしれない。

例えるならば、格闘技やってる人が己を高めるために鍛錬するようなもの。ルールに則ってスパーリングすることはあっても、道行く一般人に技をかけるのはご法度だ。論理もそのくらい強力なツールであるが故に、使う状況を見誤れば暴力と変わらない。

※議論をふっかけ過ぎて処刑されたソクラテス先生をDISる意図はない。

論理を求めるなんて虚しい

私が以前の記事に込めたメッセージは「論理を求めるなんて虚しい」である。論理を求める相手と同じ土俵に立って、「論理を求める」ことを論理的に批判しようと試みた。

「小難しい」印象は意図通りで、論理で踏み固めた説明なんて素人が手を出しても小難しくなって当然である。本当に欲しかったのはそれか?ちゃうんとちゃうか?と言いたい。

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シェアしたFacebook側でも様々な角度からのコメントを頂き、学びが多かったのでダイジェストで紹介する。後にいくほど過激派となる。

・論理は個人の思い込みを排除するためには役立つで。
・必要性を感じていない人に論理で気持ちを変えることはできへん。ジワジワ洗脳を続ける過程も、やり遂げてしまえば一瞬やで。
・求められる論理なんて「こういう説明が観たい」ニーズを満たすための甘味料みたいなもんや。
・論理を求める人は「その提案が機械として上手く働くことを証明しろ」という機械論で、新規事業提案は「こういう新しい命を育てましょう」という生命論で、そもそもの前提から噛み合ってへん。

確実を求めると発言できなくなる

話は変わって、関西人は口癖のように「知らんけど」と言う。使い方によってニュアンスは変わるけれど、代表的な意味は「自分の見解に責任は持てないので参考までに」だろうか。

「知らんなら言うなよ」という反論は予想できるけれど、確実なことしか発言できなければ何も言えなくなる。100%正しい演繹しか使ってはならないとしたら、「ソクラテスはいつか死ぬ」のような自明な結論しか得られない。その演繹でさえ、前提が間違っていたら結論も間違える。

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私は自分の眼で観たことを「机の上にはリンゴがある!」と断言するけれど、よりストイックな哲学者になると「自分の主観が何者かに歪められている可能性だって否定できない」ことまで疑う。「机の上にはリンゴがあると思う」であれば、内容が間違っていても「我思う」事実だけは否定しようがない。

すべての文章に「思う」を付けるのは無意味だし、メリハリが付かない。「思う」を付けて弁解したい誘惑もあれば、力強く啖呵を切りたい誘惑もあるけど、責任は負いきれない。そんな葛藤から生まれたのが「知らんけど」である。知らんけど。

確度とオモロさで位置付ける

わざわざ弁解してまで不確実なことを発言するのは、「オモロいから」だと仮説立てた。意外性とも言い換えられる。そう思うとオモロさを求める関西人の価値観で説明が付く。また、イラチでもあるので検証で踏み固めるような辛気臭いことはできない。

「確度」と「オモロさ」もまたトレードオフで、数直線を書けば演繹→帰納→アブダクション→知らんけどが相対化できる。論理的か非論理的かの二元論ではなく、左の保守派から右の革新派までスペクトラム状に分布している。

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虚構新聞は一番右に振り切っていて、すべて虚構だと先に弁解している(余談:情報理論だと確率50%よりも虚構100%の方が情報量は大きい)。虚構よりは確度が高いとは思うけれど私のnoteは右寄りではある。自分の立ち位置をあらかじめ表明しておけば、不毛な摩擦は避けられる。知らんけど。

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