写真のミライはマトリックス世界
写真のミライを妄想するに、仮想現実をはじめとするXRを通過点として、映画マトリックスのような追体験コンテンツへと向かう。そんな未来においても、着眼点を持って感動を表現するためのコンテンツ編集は写真家の役割として残り続けるんじゃないかという予想について。
身体にプラグを刺して追体験する未来
以前の記事で「写真を撮るとはそもそも何か?」という問いから、視覚から湧いた感動を留めて他の人に伝えられるようにする仕組みだという仮説を導いた。
仮説の裏付けとして、黎明期のカメラは現実世界の構図・陰影・ボケ味を絵画へと留めることで、フェルメールのような絵画が感動を伝えることを補助してきた。やがて進化とともに、写真そのものが白黒→カラーになり色域やダイナミックレンジを広げて感動をおこす力を強化してきた。デジタル化して留める力を強化してきた。オンラインに繋がり伝える力を強化してきた。
この方向性を極限まで推し進めると、未来における写真の楽しみ方は映画マトリックスのようになる。身体にプラグを刺して脳に刺激を与えることで、五感を通して感動の追体験をさせる。わざわざ視覚を介するよりも直接的に感動を伝えられるだろう。
追体験コンテンツの制作は写真家の役割か?
そんなマトリックス世界を実現した未来で、コンテンツ制作は写真家の役割になるだろうか?という疑問はある。私の見解は「それも写真家の役割」である。
現在の動画関連でも「それは写真家の仕事か?」議論はある。もともとは別の職業だっただろうけれど、各メーカーが新商品のカメラに4K 60p動画撮影を付け、写真の祭典CP+でも動画セッションがの比率は年々増えていることからも、時代が代弁している。実際、動画ネイティブ世代に写真を始めた人は、当たり前のように動画を撮る。
歴史は繰り返すように「それは写真家の仕事か?」議論はパラダイムごとにおこるだろう。それでも、やっぱりレタッチやトリミングのようなマトリックス世界の編集作業において、写真家の持つコア能力が求められると予想する。
写真家のコア能力は「心に響く表現」
便宜的に写真の能力を「撮影テクニック」と「心に響く写真表現」に分けて考える。この捉え方は「写真のアイデア手帖」から拝借している。
前者の「撮影テクニック」に関しては、新しいパラダイムにシフトと共に新しい撮影テクニックが生まれる。具体的には、動画撮影テクニック、VR撮影テクニック、マトリックス世界撮影テクニック...など。
動画では録音が伴うように、写真と異なる点は出てくる。時代にキャッチアップする意味では学ばねばならないが、時間が経てばスキルは技術に置き換えられる。ちょうど、写真のマニュアル撮影ができなくても、AE/AFの機能が助けてくれるような話。
後者の「心に響く写真表現」について。すなわち体験した風景に感動する着眼点は、媒体が写真→動画→XR→マトリックスへと変わっても、普遍的にあり続けると思う。もちろん、その時々の流行り廃りや、媒体の進化に伴う表現の開拓もある。それでも、絵画表現を学べば写真にも活きるよう、温故知新なものとなるだろう。
現実世界で一般人と写真家が一緒に散歩しても、写真家の方が「ここを撮りたい」と感じる感度は高い。マトリックス世界に没入する一般人の五感だけを乗っ取ったところで、そのままでは写真家が見出したユニークな感動を追体験できないかもしれない。感動ポイントに誘導する表現でなければならない。
現在の写真や動画であれば、長方形にキリトルことで視界を釘付けることができた。マトリックス世界でも、魅せたい情報だけに削ぎ落したり、印象的な視覚情報を強調したりすることは必要だろう。それがどんな編集作業になるのかは想像も付かない。
現代とマトリックス世界の間
一足飛びにマトリックス世界に行くわけではなく、途中には視覚を覆って鑑賞する仮想現実も経由するだろう。○○現実の総称であるXRのコンテンツ制作は、今現在は技術寄りのクリエイターが担っているけれど、撮影手段が民主化すれば写真家の役割になるだろう。
もっと先の写真のミライでは、映画マトリックスのような追体験コンテンツへと向かう。そんな未来においても、着眼点を武器にして感動を表現するコンテンツを作るのは写真家の役割であり続けるだろう。
首の後ろからプラグを刺すマトリックス世界は少しばかりショッキングなので、できれば非侵襲で追体験することを望む。
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