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#0066 田中角栄:日本列島改造の夢と現実、我々が学ぶべきこと

おはようございます。皆さんは田中角栄をご存知ですか?

田中角栄は、昭和の日本を象徴する政治家の一人です。彼の政治は、日本列島改造論とその後の転落によって特徴づけられ、今なお彼の評価は様々な議論が展開されています。

私の母方の祖父は新潟県出身で、田中角栄が大好きでした。祖父から聞いた話と、教科書やドキュメンタリーで見る田中角栄のイメージは、私の中で複雑な絵を描いています。

彼は戦後の日本を象徴する存在であり、小学校しか出ていない地方出身者として多くの人々に希望を与えました。当時は正社員という特権階級と庶民という構図がハッキリしていて、寅さんを見るとその構図がよくわかります。寅さんの「お前、差し詰めインテリだなこの野郎!」の台詞に象徴されているように、寅さんも田中角栄もインテリの外側にある庶民の代表的存在だったのだと思います。角福戦争なんかも、まさにその構図ですね。

そして、あのインパクトのあるダミ声の演説と政策は、多くの人々を魅了しました。しかし、彼の政治は時に矛盾したものでした。

今日はNHKのバタフライエフェクト『田中角栄 列島改造の夢と転落』を見て、さらに翌日に木下斉さんのvoicyを聴いて思った田中角栄の生涯と政策から学ぶべき教訓を深掘りしたいと思います。(3741文字)

○日本列島改造論: 地方振興から見る田中の政策

田中角栄が提唱した「日本列島改造論」は、彼の政治生涯の中でも彼と昭和を象徴するような野心的な政策でした。この大胆な構想は、地方振興を大々的に掲げ、道路、住宅、メディア活用など、日本全国のインフラを根本から変革しようとしました。釧路にも新幹線を通す計画でした。多くの地方の住民達にとって、これは長らく待ち望んだ希望の光となり、田中角栄の政策は支持を集めました。

日本列島改造論で示された新幹線網

しかし、この政策が実際に地方社会にもたらした影響は、一筋縄ではいかないものがあります。一部の地域では、新しい道路や住宅が建設され、経済活動が活発になるなどの明確な利益が見られました。しかし、他方で、これらの大規模なプロジェクトが長期的な視点で地方経済や社会にどのような影響を与えたのかについては、今でも議論が分かれるところです。田中角栄の実績について、Wikipediaの情報を以下に要約しておきます。

概要: 田中角栄は、日本の政治家、実業家、建築士として知られ、1918年5月4日生まれ、1993年12月16日に亡くなりました。彼は衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任しました。田中は自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことで有名です。彼は「今太閤」や「影の総理」などと呼ばれ、多大な影響力を持った政治家として知られています。

主な実績と影響:日本列島改造論: 田中は日本列島改造ブームを引き起こし、その政策はインフレーションを招いた。
政治手法: 田中は巧みな官僚操縦術を見せ、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持つ稀な存在でした。
国際関係: 在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応しました。
ロッキード事件: 首相を辞職後、ロッキード事件で逮捕・収監され、自民党を離党しましたが、その後も政界に隠然たる影響力を保ち続けました。

田中角栄 - Wikipedia

○転落とその理由: 時代の変化

田中角栄の政治生涯は、国民的な支持の頂点から転落へと急転直下したものでした。この転落の背後には、国際的な経済危機の影響もありました。1970年代に入ると、日本はオイルショックによる急激なインフレという未曾有の経済危機に直面しました。これにより、国民の生活は一変し、厳しい状況に追い込まれました。日本列島改造論に基づく過度な開発がインフレ(1973年11.7%、1974年23.2%)を招いていると批判を受けるようになるのです。

【インフレ対策から転落まで】
・第一次オイルショック・日米貿易摩擦などの影響で物価が急上昇。
・インフレ率は1973年11.7%、1974年23.2%に達する。
・インフレ対策として、1973年11月に緊急経済対策本部を設置し、1974年1月には緊急経済対策法を制定。公共事業の縮小、公定歩合の引き上げ、所得税の減税、物価安定補償金の支給などが含まれていた。
・対策の効果は限定的で、インフレは1975年にも10.8%と高水準にとどまった。
・田中政権はインフレとの闘いに苦戦し、ロッキード事件による政治的混乱も重なって、1976年に退陣に追い込まれた。

田中角栄 - Wikipedia

田中の政策は、地方振興と公共事業に重点を置き、地方に人口を留め、経済活動を活性化させることを目指していました。しかし、オイルショックによるインフレと、大手企業の生産拠点が太平洋ベルトから地方ではなく海外に移転するフェーズにきていたという外部環境の変化は、彼の政策が想定していた状況とは大きく異なっていました。

【田中政権下の日米貿易摩擦】
・1970年代に日本の輸出が急増し、アメリカの産業や雇用に影響を与えたことで、アメリカが日本に対して輸出規制や市場開放などの要求を強めた。
・主な摩擦の対象は、繊維、鉄鋼、自動車、半導体などの工業製品や、米、牛肉、オレンジなどの農産物。
・田中角栄は、通産大臣として最初の摩擦となった繊維問題に対処。アメリカは日本の繊維製品の輸入制限を求め、対敵通商法を発動すると脅すも、田中は粘り強く交渉し、日本の輸出自主規制を条件にアメリカの関税引き上げを阻止。
・この交渉は、田中の政治手腕を示すものとして評価された。

田中角栄 - Wikipedia

地方振興は、地方の公共事業に人を貼り付け、生産性の高い産業への人材の流動性を止めてしまいました。

地方への産業移転の失敗と合わせて、彼の政策は時代の要請に整合しなくなり、国民から批判を浴びることとなりました。

○田中角栄から学ぶ: 歴史からの教訓

・正確な現状把握

田中角栄の政治生涯は、今日においても私たちに多くの教訓をもたらしています。彼の経験からは、政治家、ビジネスリーダー、そして一般市民にとって重要な洞察を得られます。特に、正確な現状把握時代の変化への適応の重要性は、田中角栄から学ぶべき重要なポイントです。

田中は、地方振興と経済発展を目指して日本列島改造論を推進しましたが、時代の変化と外部環境の変動に対する対応が不十分でした。特に、オイルショックによるインフレや国際化の進展といった予期していない環境変化に対して柔軟性に欠けた点は転落への引き金になったと言えます。。これは、リーダーが外部環境の変化を敏感に察知し、柔軟に対応することの重要性を示唆しています。

恐らく、地方振興は、彼が政治家を志した時から描いていた政策であり、夢であったと思います。故郷の暮らしをよくしたいという強い思いで前に進んできたわけですが、残念ながら彼が総理大臣になった時には時代が変わってしまっていたのです。

・過去の経験に固執しない

さらに、田中の政治手法は、過去の成功体験に固執することの危険性を示しています。リーダーは、常に新しい情報と状況を分析し、柔軟な思考で未来を見据える必要があります。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言を体現しており、私たちも過去にとらわれず、常に変化に適応する姿勢を持つべきことを教えています。

○田中角栄の教訓: 歴史から学び、未来へ進む

彼の野心的な日本列島改造論、時代の変化への対応の失敗、そして転落は、現代の私たちにとって多くの反省と学びを提供しています。

田中は、地方振興と経済発展を目指しましたが、時代の変化と外部環境に適切に対応できなかったため、多くの批判を受けました。彼の政策がもたらした成果は、今日の日本のインフラや地方経済に依然として影響を与えており、長期的な視点で政策を考えることの重要性を示しています。

彼の転落は、リーダーが外部環境の変化を敏感に察知し、柔軟に対応することの重要性を示しています。現代人は、この教訓を心に留め、常に変化に適応し、柔軟な思考を持つことが求められます。

最後に、田中角栄の生涯は、過去の成功に固執することなく、未来を見据え、新しい情報と現状を分析することの重要性を示しています。私たちは、田中の教訓を活かし、より良い未来を築くために、歴史から学び、常に進化し続ける必要があります。「どうして彼はこんなことをしたんだろう?」と答えを知っているちょっと上から目線の現在から歴史を見てしまうことがありますが、歴史を学ぶとは客観的にその時代を生きた人の目線に立って考察を深めて教訓を導くことだと思います。

田中角栄の物語は、過去を振り返りながらも、未来に目を向け続けることの重要性を教えています。彼の生涯から学び、令和の時代の課題に対応し、より良い未来を築くために前進していきたいと思います。

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