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#0135 「人間とAI」どちらがミトコンドリア?:気をつけたい生成AIとの付き合い方

皆さんは生成AIを使用していますか?

私は昨年の12月くらいから書籍・YouTubeを参考にして、chatGPTを中心に生成AIを触り始めました。

はじめのうちは壁打ちで、自分の考えを整理したり、違う視点を見つけたりするのに使っていましたが、最近はnoteを執筆する際の秘書的な活用を多用しておりました。

例えば、移動中や布団の中で考えたことなどをスマホにメモしてchatGPTで文章化したり、文章を校正したりといった活用です。

慣れてくると、色々なプロンプトを試したくなり、とっておいたメモをネタにしてchatGPTに文章を書かせて、生成された文章をジブン語に修正していくような使い方もしばしば行っていました。

生成AIすごい!
生産性は高まるし、可処分時間は増えていく!
良いことずくめではないかっ!

実はインフルエンザで寝込んでいたときも、chatGPTさんの力を借りてnoteを執筆することができました。その時は「AIに仕事を奪われるとか言うけど、AIを使う人間に仕事を奪われるだよな」とか偉そうなことを考えてしまっていました。

ですが、chatGPTに文章を書かせてみると、無味無臭で無機質な文章になってしまうなと感じていました。

生成後の文章をジブン語に編集したり、エッセンスを補強したりしても、AIが作りました感がある。

とくに最近はギアが入り、毎日投稿記録を続けたくなり、継続して数字が伸びることに酔っている中、AI風文章の違和感は膨らんでいました。

そして先日、そんな私のnoteを木下さんがご覧になったかどうかわからないのですが、木下さんのnote、Voicyを通じて、「お前のnote、生成AI使い過ぎでマジつまんねーわ。そんなんだったらnote執筆するの辞めたら?」と言われた感じがして、ハッとしたのです。

「AIに仕事を奪われるとか言うけど、AIを使う人間に仕事を奪われるだよな」って酔ってんじゃねーよ。生成AIを使う哲学を忘れていないか?生成AIの便利さに溺れてジブンを失っていないか?と。

そう。私は生成AIに飲み込まれて、まるでミトコンドリアになってしまう一歩手前だったのではと思ったのです。

20世紀の核がそうであったように、技術そのものが良い・悪いではなく、使う側の人間が、どのような哲学で使うかによって、善悪が変わってくるものだと思います。

AIを使うことに慣れてきたと感じる皆さんも、この機会に一度立ち止まってAIとの付き合い方について考えてみて欲しいなと思います。


○ミトコンドリア

・高校生物の知識

高校時代は文系で生物を選択していました。今でも頭に残っている数少ない生物の知識の一つに細胞の図(下図)があり、中でも真っ先に名前と機能を説明できるのがミトコンドリアです。

ミトコンドリアは細胞小器官の一種で、酸素を使ってエネルギーを生成する組織です。このエネルギーは、体を動かしたり食べ物を消化したりするなど、細胞のエネルギープラントとして、さまざまな生命活動に利用されます。

サワイ健康推進課ホームページより

・ミトコンドリアは独立した生物だった

ミトコンドリアは元々は別の生命体で、真核生物に寄生していたら居心地が良くなって、気付いたら真核生物の細胞の一部になってしまったのです。

Wikipediaによると、ミトコンドリアはアルファプロテオバクテリアの一種が起源とされ、約20億年前に原始的な真核生物の細胞がアルファプロテオバクテリアを取り込み、それが進化して現在のミトコンドリアとなったそうです。

取り込んだ側(真核生物の祖先)のメリットとしては、エネルギーの効率的な生産有害物質の処理、取り込まれた側(ミトコンドリアの祖先)のメリットとしては安定した環境(真核生物の細胞内は、外部環境に比べて安定した環境で、外部の過酷な条件から保護された)栄養供給(真核生物から安定した栄養供給を受ける)があり、取り込まれたミトコンドリアの祖先は、真核生物の細胞と共進化し、互いに依存する関係を築いていったそうです。

つまり、両者は互いに依存関係にあるものの、かつて生物だったミトコンドリアは、もはや生物ではなく、唯一その痕跡として独自のDNAを保有しているに過ぎない。ということが言えます。

○人間とAI・真核生物とミトコンドリア

・落合陽一先生の問い

私の同世代の中で勝手に偉人と崇めている人の一人に落合陽一さんという凄い人がいるのですが、筑波大学でAIについても第一線で研究されていて、検索すればたくさん関連動画や著書などが出てくると思います。

落合陽一さんの著書『これからの世界をつくる仲間たちへ』やAI関連の動画などで、「人間とコンピュータ(AI)はどちらがミトコンドリアなのか」という問いが度々でてきます。

・頭の体操

たとえば、ウーバーのシステムのAIが配送に最も適した配達員を探し出し、配達員に最も効率的なルートで配送するよう指令を出し、配達員はその指示に基づいて配達を行うということを想定した時、配達員は小遣い稼ぎのために配達業務を請け負っているというだけだけど、人間である配達員はウーバー側のシステムから見たとき、人間と言うよりはシステムを動かすための細胞の一つ、つまりミトコンドリア的であるという頭の体操は成立すると思うのです。

AI以前の世界では、人間が自らの経験と勘や地図を読み込んだり、混雑状況などを加味して配送ルートを導き出すのですが、この場合はそうした思考がすべてAIに委ねられていて、配達員は配送ルートを検討することなく、配送業務に集中することができます。しかも効率的なので何件もこなすことができます。

この構図は、note執筆に生成AIを活用しまくっているジブンと被るなと思います。

落合陽一大先生は、著書などで度々説明されているのですが、人間とコンピュータ(AI)の上位概念としてデジタルネイチャーという世界観を提唱され、人間とコンピュータ(AI)は入り混じり共生しているような観念を説いています。

シンギュラリティが近いと言われている現代ですから、そうした世界観がやってくるだろうとは思うのですが、冒頭にも触れたように、生成AIを活用するにあたって、使う側の人間がどのような意図と哲学をもっているかによって、核が人間を滅ぼす力を持っているのと同様に、AIが人間をジワジワとミトコンドリア化させ、人間を人間たらしめなくする可能性だってあるのではと思うのです。

○何を以て人間たるや

・ジブンがAIの養分になっている自覚を

最近の世の中は、どこに所属しているとか肩書で自分を定義するよりは、自分の言葉で定義することが求められる時代だと感じます。

それと同じように、将来、デジタルネイチャー的世界が現れたとき、何を以て人間かといった自己定義が求められるのではないでしょうか。

そうすると、今の私のように便利さに溺れ、文章を自分で書かなかったり、自分の考えや気付きをAIの養分にさせるようでは、自らAIのミトコンドリアになりにいっているようなものなのです。

あくまでAIは道具として活用すべきで、まずは道具として活用している最中もジブンがAIの養分になっていることを自覚すべきです。

・思考すること

人間にしかできないことに、一次情報にアクセスできることがあります。
とくに身体的な一次情報の取得は、AIにはできません。

旅行にいって、現地の気候を感じる。食事をする。トラブルに巻き込まれる。現地の人と出会い友人になる。夕日を見て泣く。などなど

そこから得られる偶然の産物や、そこで感じられることや、既存の身体知・経験と結びついた新たな気付きや学び、非合理的なまでの感情やあふれ出る感情などは、人間にしか得られないものです。

更に我々は、そうした情報を内にある感情や知と結び付けたりすることで、新しいメッセージを作り出すことができます。

私はこれが「思考」だと思います。

ポエム系やエモ系は心地良いのですが、この思考のところまで踏み込めていない。なので、木下さんがnoteで仰っていた「トンガリ」がなくなる。

感情もAIにはないものですが、優等生的均質な感情を表現することはできます。しかも人間が心地良いと感じられるような。

なので、何を以て人間たるやを考えたとき、一次情報にアクセス→内にある感情や知と結び付けてメッセージを作り出すというところまでやらないと、人間としての「個性」は生まれないのかなと思います。

・論理的思考をすること

そして、私がもうワンステップ上を目指すにあたって必要なのは論理的思考ではないかと思います。

主張、根拠、命題などの情報を加工したものが思考だとするなら、それを構造的に筋道を立てて組み立てていくことが求められます。

木下さんのnoteやVoicyは、まさにそうした構造が成立しているからこそ、納得性が高いのではないでしょうか。

自分の力で思考できる、そしてそれを論理的に展開することで人にも伝えることができる。そこまでいかないと、シンギュラリティ、デジタルネイチャーの世界で埋もれてしまうのではないか。
AIのミトコンドリアになってしまうのではと思うのです。

楽なダイエットなんてないのと一緒で、
楽なトレーニングを習慣化してはいけませんね。

皆さんは、どうですか?
ミトコンドリアになっていませんか?



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