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画 素


画素数が年々下がる母の目にピンチアウトは異次元の神



そんなにも見なくて良いと言うことか嘘か誠か分からぬものは



明確に見る必要のあるものがいくつあるかと問われて黙る



しるしおく"記録"と一緒にしないでと情緒豊かな"思い出"が言う



「そうだよね」それで返しは十二分「聴いてますよ」の鸚鵡になろう



春の陽にすべてまるごと奪われて白飛びしている街をさまよう





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白内障が進み始めた母の目も画素数が下がったんだと考えれば、少しは理解できるのかもしれない。解像度も低く明度と彩度の鈍い世界。


徐々に起こる変化は当人には分かりづらい。

頑張って登った丘の上から緩いスロープを滑り降りてくるんだとしたら、周りの景色の差異に気付くまでにはある程度時間が掛かる。そんな感じなのかもしれない。




三つ向こうの電信柱の看板の文字まで読む必要あるか?と、以前息子に言われたことがある。必要だと感じたのなら近寄って行って読めばいいだけ、そうじゃないならそれは要らない情報だ。

そういう考え方もあるのか…とあの時は妙な気持ちになった。私は目に入るものは読みたい分かりたい性分なので、なんでも闇雲に追いかけてしまう。

目に映るもの全てを受け取る必要なんてないのかもしれない。何もかもに反応して理解しようとするのはどう考えても無理。ふらふらと自分を振り回した挙句に居場所を見失ってしまうのは疲れる。



頷くだけ、相槌だけ、先を促すだけでいいこともある。答えが求められてるわけじゃない時もある。というより、たぶん答えなんて求められてはいない。

こう思ったよ、こうしたよ、って言いたい、口にしたいだけだ。

年を重ねた親にあれこれダメ出しするのはやめて、「そう…」と受け流せるようになりたい。聞き流しているわけじゃなく否定しているわけでもなく、それでいてさりげなく本筋に話を戻す技術があれば…。





人間ひとってナマモノだから、機種変してデータ移行なんて出来るわけもない。

オーバーホール、パーツ交換、オイルで少しでも可動がスムーズになるようにメンテしていくしかない。

ナマモノはデジタルにはなれない。


画素数も解像度も必要に応じて、の方が生きやすいのかもしれない。


生垣や下草に当たってはねた陽が眩しい。






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