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食への執着と愛の表現について


食に貪欲な、20年近い付き合いの友達と美味しい中華を食べた。
3人で海外旅行に行き、お腹がはち切れそうになっても、次のご飯屋さんの閉店時間に向けてダッシュをするような、そういう精神があり、なおかついろんな味に挑戦してみて分析を楽しむような友達だ。

最近のなんとなく気分の晴れない時間が嘘のように、すごく楽しい時間を過ごした。
元彼の悪口も言ったし、そんなやつ別れてよかったねという話をしたけど、一方で、1人になってふと「これを彼に食べさせたかったな」と思っている自分がいる。

元彼の好きだったところは、私が連れて行った新しいものに対してすごく新鮮に驚いてくれて、大切に取り入れてくれたところだった。
ストリップをウキウキで見てくれて、旅先では超高級料理にも一緒に行ってくれて、王将では天津飯うますぎるとわらってくれた。
そういう時にありがとうと言ってくれるのが嬉しかった。
私が本気で遊んできた経験が、彼にとって新しいことなのが喜びだった。

好きな人には、新しい体験をもたらしたい、一緒にしたいという思いがある。
これをしている時にどう感じるんだろう、自分とは違うかもしれない、どうかな。
そう考えることがその人への期待だし、好きであるということの表現でもある。

特に、私はそこそこ食べ物に対して感度を高めて生きてきたので、性行為よりも共有力というか満たされ力があるとさえ言える部分がある。
今日一緒にいた、彼女たち2人のことも、口の中を経由して絶大な信頼を置いている。
美味しいご飯に連れて行ってくれる、すごく好き。
美味しいご飯を共に食べたいという欲求。そう思ってもらえているということが幸せだと思う。

生活していると、ご飯を食べてニコニコしていられる場合ではないことがたくさん起きる。
そもそも新しい種類のご飯を毎日食べれるわけではないし、そういう機会は落ち着いた関係になると減っていくことも理解はしている。
自分の、共有したくない箇所を晒すことだってあるだろうし、むしろそういうところが合う方が大事だという観点もわかる。
でも、なんか、なんだろう、美味しいねっていう気持ちを集中して共有できない関係はすごく冷えてると思ってしまう。
私の愛情表現が豊かではないのもひとつあるとは思う。

おそらく、生まれてからずっと長い間、確かに感じることのできた愛情が食なんだと思う。
食に関してはどんなわがままも聞いてもらえたし、どんなわがままだって自由に言えた。
そのわがままの範囲も、きっと受け止めてもらえるだろうなっていう範疇を越えずに無茶せずコントロールが効いた。
幼稚園児の頃からずーーっと、私の好きな食べ物は、きゅうり、しいたけ、キャベツ。
食べたいものをカゴに入れて嫌がられることのない人生だった。

ここから愛の表現のバリエーションをふやすのって増やすのって結構大変だと思う。
愛のチューニングはすごく難しくて、感度があるもの同士で授受しないとなんか無意味になっちゃうわけで、どうにかしてマッチングをしたい。
料理人の人とかと、どうこうならないかな。
そううまくはならないか。