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哲学はバランスよくやろう。

こんばんはー。
今日は哲学について色々語ってみたいなー。

僕がいつから哲学し始めたんかなって言ったらマジで物心がついた時からな気がするな。
というか今より昔の方が哲学してた気がする。
なんでかって言ったら昔の方が僕は常識とか偏見が無かったから。
当たり前というのを知らなかったから。

昔の僕はASD、アスペルガー的傾向が今よりも強かった。
それで周りの人が当然のように理解してそうなことが分からなかった。
それになぜそうすべきなのかとかを自分なりに理解できないと我慢ならない性分だった。
上手く社会的に振る舞うのも昔から苦手だった。
それで自己防衛的な動機だったのかなあ、色々ゴチャゴチャと考えてたな。

「なぜ学校にいかなきゃいけないんだろう。学校って何であるんやろ。」
「なんで宿題って出さなあかんのかな。」
「教育って何のためにあるんやろ。どうあるのが良いんかな。」
「大人って何であんなにエラそうなんや?」
「そもそも大人って何?子どもとどう違うの?」
「なぜ嘘をついてはいけないんだろう。」
「誰とでも仲良くしなきゃいけないってホント?」

みたいなことをずーっと考えてた。
それで自分なりに答えを出したりまた問うたりを繰り返していた。
哲学という言葉を知らなかったけど、あれがまさしく哲学やった気がする。
通常の倫理、道徳に従えない、無理に馴染もうとすると自分が破壊されてしまう感覚がある。
それで疑いを持って色々と考えてみる。
畢竟問うこと、それが哲学な気がする。
哲学をやることで僕は自分を守ったり、社会と自分のバランスを保って振る舞うことができるようになってきた気がする。

ただ哲学にも良し悪しがあると思う。
まず問うことには終わりがない。
納得できる答えが得られるかどうかは分からない。
問答法によってソクラテスが示してきたように僕らが言葉によって示せる、知り得ることには限界がある。
言葉だとか、死とか、人生の意味とか、世界の始まりとか、より良い社会とかみたいなものに対しての問いは特に答えがない。
それらを問うこと自体に意味はあると思う、というかやり続けるべきに思う。
でも絶対的かつ客観的な答えは得られない。
どっかで納得、妥協してやってかないといけない。
そういったことを弁えておかないと気が狂ったり絶望したりして変なことになる可能性がある。

哲学っていうのは破壊的なところがあると思う。
問うことによって当たり前を当たり前でなくする。
そうすることで当たり前がなじまない人を助けられたり、より良いものについて考えようとするきっかけにはなる。
でも使い方を間違えると色々と危険な気がする。
特に自己破壊の恐れがあるところが危険やと思う。
自己破壊的に哲学が出来ない人は不誠実やと思うけど、でもそれが行き過ぎたら死んじゃう可能性がある。

例えば夏目漱石の「こころ」に出てくる「K」。
彼は哲学の道を究めるために色々と精進してた。
育ての親の反対を振り切って哲学科に入って仕送り止められたり、馴れ合わずに友だちをあまり作らんかったり。
数少ない友だちの「先生」に対しても、遊んだり恋愛したりしてるのを見て「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言った。
めっちゃ尖ってる。
ただ先生とKで下宿してたところにいた「お嬢さん」にKが恋してそれを先生に見抜かれた。
それで先生に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い返された。
先生は抜け駆けしてお嬢さんに告白して結ばれた。
そのあとKは自殺してしまった。

Kは多分色々と絶望したんやと思う。
哲学の道に行こうとしても色恋に現を抜かすような馬鹿だと先生にブーメランを投げ返されたから行けない。
生家の浄土真宗に対しての信仰心も持てないし、養家の医学の道も行くのはイヤだ。
周囲の人間とも馴れ合うのも苦手で大学にも友だちがいない。
色々と詰んでるように見えてKは死んじゃったんやと思う。

僕はKが好きでもあり嫌いでもある。
Kの求道者的姿勢には正直憧れるところもある。
僕は自分を追い込めなかったから、精進できるKはかっこいいなと思う。
Kの批判的な精神は僕も持ってしまってるから、色々と共感できるところも多い。
でもだからこそ危なっかしいなーとも思う。
問い続けてたらある程度誠実な人間なら、やっぱり自分に対しても問うことに、批判的思考を向けることになる。
あと問うことに満足や終わりを求めると、絶対的に完璧な何らかの答えを出そうとすることになる。
自分に対しても完璧な自分を求めることになる。
でもそんなのはない、語り得ないしなり得ない。
そこで無理を通そうとすると死んじゃう気がする。
僕はKよりも弱い人間だから特に。

要は程度の問題なんかな。
哲学の扱いは薬に似てそう。
多すぎても少なすぎてもだめな感じ。
疑問を持たなすぎるのも変な方に流されてきそうで危険やと思うけど、問いすぎても変になったり死んだりしてしまう恐れがある。
ぼちぼちな感じで行きたいな。
あんまり引きこもって一人で哲学してるとインプットが偏ったり少なすぎたりしてなんかズレてきそうな気がする。
だから社会とか世間に開かれてる感じでやるのがいい気がする。
働いたり学校行ったり地域やネットのコミュニティに入ったり。

あと、仏教の精神が教養としてベースにあるといいんじゃないかなって気がしてきた。
「中道」とか「無常」とか「空」とか哲学をバランス取ってやる上で役立つ教えが仏教には多い気がする。
仏教と哲学についても語りたいけど疲れたからまた今度にしよう。
しんどいけどnoteやっぱ楽しいなー。



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