見出し画像

学校で多様性を理解する重要性

俺が好きになりやすいnoterさんは意識が低めで肩の力が抜けてる感じがある人が多い。
働いてない人や病気持ちの人だったりして社会からは受け入れられ難い人も多い。
役に立つ文章よりもどうでもいいようなことを飾らずに軽く書く人が多い。

ただメタ的に考えてみたり、周りからの俺への評価を聞いたりすると俺の文章もそんな感じな気がする。
つまり同類が好きなんだろう。
どちらかと言うと投稿頻度は高い方だが毎日というほどではない。
彼らの文章は軽くてスルスル入ってくる、一種の癒やし効果を感じる時もある。
出来れば毎日読みたい。
ただその時々にふと思ったことをさっと書いてるようなものだから書けないときは書けないんだろうな。
俺も同類だからよく分かる(という気になってるだけー。)

人には同類センサーのようなものがある気がする。
noteでは似たような感性を持ってるなって人は文章を見れば大体分かる。
対面なら雰囲気や話し方だけでも分かる。
逆に合わない人はとことん合わないというのも感じられる。
日本語同士で会話をしても同じ言語を用いて喋っている気がしない。
例えばサン=テグジュペリの「星の王子様」やひぐちアサの「ヤサシイワタシ」を読んで分からないやつ。
合わない人と話してみるのは楽しいが最近は疲れやビビりの方が勝つようになってきたかも。
いやそうでもないか、俺普通に楽しいから話しに行くな。

最近は同類とばかり連んでる気がするな。
大人になりきれない、純粋さが捨てられない人が周りには多いような気がする。
上手く生きる能力があってもそれを選択しない人とかね。(俺にはそんな能力はないけど。)
あと小難しいこと考えるのが好きなやつとか。
大学もシェアハウスもそんな奴が多いなー。
「スタンド使いは惹かれ合う」みたいなことってあるよねー。

年齢を重ねるにつれて人は自分の進路を選択していく。
同じようなパーソナリティを持った人が似た進路を選択する。
そうして人は自分と同じタイプのやつとばかり連むようになっていく。
これはさして良いこととも悪いこととも思わないが、こればかりだと一種のリスクがあるように思う。
自分の中に付き合ってきた人間の多様性がないのは危険な気がする。
「人はそれぞれ違う」ということや、「必ずしも分かり合えるとは限らない」ということを知らない、経験してないのは危ない。
他者を受け入れられる価値観の器が小さい。

振り返ってみれば公立の小中高に通っていたのは良かったな。
公立校というのは雑多に色んな奴をごちゃ混ぜに集めたようなところだ。
それに俺の出身はど田舎の治安の良くないところだったから、ヤンチャだったり読書が嫌いだったりな俺とは違うタイプの奴が多かった。
自分とは違う多様な人間と小さい頃に関われたのは良かったなって思う。
人間に対してのキャパシティが広がった感じがする。

あと実体験で自分と違うタイプの人間の理解を深めるのもできて良かったな。
ヤンチャな奴って社会規範を守るのが下手に見えて意外と上手い。
どこまでならセーフでどこまでならOKってポイントをトライアンドエラーで見極める癖があるよな。
あと人間的に賢いなって思う。
中卒とか高卒の人と喋ってると社会とか人間の本質を知ってる感じがなんかする時が多い。
しかもそれを何となくで理解してそうな雰囲気がある。
彼らが勉強を俺より短い時間しかしなかったのはそもそもそこまでする必要がなかったせいかもしれない。
俺が本を読んだり言語化を頑張る中で得たものを彼らは普通に生きてる中で手に入れていく。
彼らは今はもう働いてるし、結婚して子どもがいる奴もいるな。
人間としての成長が俺は非常に緩やかやけどまあそれも多様性ということで、自分が人と違うということも受け入れるしかないよなぁ。

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?